さて、養父謙信と比較してさほど目立たない存在にも感じられる上杉景勝。若き日の彼はどのような人物だったのでしょうか。 |
上杉景勝なる人物 後世「景勝人となり、豪邁にして膽大なり。其戦陣に臨むや、前隊既に戈を交へ、矢丸雨の如く下だり、呼聲天地に震ふ時も、身尚ほ幕中に臥し、鼾聲雷の如し」と評され、笑うことがなく常に峻厳な態度であったと伝えられる寡黙の名将・上杉景勝。参内するときの彼の軍列は「寂として咳聲をも聞かず、唯人馬の行聲粛々然たるのを聞くのみ」であったと言い、またその兵たちは、敵よりもはるかに主君景勝を怖れたという。 関ヶ原で西軍が敗れたため、米沢三十万石に減封されこそするが、そのいぶし銀のような存在には根強いファンも多い。景勝とはどういう人だったのか、これから彼の人生を簡単に追ってみることにしよう。 若き日の景勝 彼は弘治元(1555)年十一月二十七日、越後魚沼郡上田荘を本拠とする、坂戸城主長尾政景の二男として同城で生まれた。母は謙信の姉・仙桃院、つまり謙信の甥に当たる。この年の十月一日には、毛利元就が安芸厳島に陶晴賢を攻め破っており、同世代の武将としては藤堂高虎(翌年正月六日誕生)がいる。 彼ははじめ卯松(うのまつ)と呼ばれ、のち喜平次顕景を名乗った。そして天正三年に景勝と改名し、弾正少弼に叙任される運びとなるが、この稿では煩雑さを避けるため、初めから景勝・謙信の名に統一して書き進めさせていただくことにする。 さて、彼がまだ十歳の永禄七(1564)年七月五日、父長尾政景が野尻湖で舟遊び中に事故死するという出来事が起きた。これは謀反の噂のあった政景を宇佐美定満が舟遊びに誘って独断で差し違えたとも、謙信の命により定満が政景を殺害したとも伝えられるが、真相はわからない。単に酒酔いによる溺死説もある。 彼が謙信の養子となった時期にも、五歳の時という説と、この事件の直後とするものなどの説があるが、景勝が八歳の時に上野館林出陣中の謙信から慈愛に満ちた手紙が送られていることから、養子縁組の成立日時はともかく、謙信が以前から親身になって彼の世話をしていたのば間違いないと思われる。また、この事件があって以来、彼は無口になったとも言われるが、人情的にはうなずけるが、確たる証拠はないようだ。 そして巷説にこんなエピソードがある。 父政景の奇禍の後、謙信の命により彼は直江実綱・甘糟景持に預けられ、その器量があるならば十六歳にて政景の本領を返してやろうということになった。直江・甘糟が景勝を親しく観察するに、人柄はもの柔らかだが、手ぬるいかと見ればそうではなく、たいていのことはじっと堪忍するが、怒るときは激しかった。また不憫だと思えば慈悲をかけ、人を使うにも心配りをして「ありがたいことだ」と思わせるような使い方をした。さらに文武の道に精進し、老巧の者の話には耳を傾けて理非の吟味をしたという。 また、「父政景が罪を得て身を滅ぼしたのは天罰で(この話では政景は謙信に成敗されたとされる)、謙信公には少しも恨みはない。本来なら政景の子ということで成敗されても仕方ないところ、一命を助けられたのみならず、ゆくゆくは私の心掛け次第で本領を賜るとのこと、この御恩にいかにして応えよう。召し出されれば、身命を抛って忠勤を励み、父の不忠の罪を償い、我が忠誠をもって亡霊の迷いを振り払いたいものだ」と言って、父の回向として毎日千篇の経を唱えたという。 そしてこれを両人から聞いた謙信は、彼を召し出して側奉公を命じた。景勝十三歳の時のことであった。そして元亀元年、景勝と運命的な出会いとなる一人の青年が春日山城へやってきた。 |