長宗我部元親や佐々成政を下し、その身は従一位関白となった秀吉が、思わぬ軽装で越後までやって来て、景勝に面会を求めます。さて、景勝は・・・。 |
景勝のプライド 秀吉は精力的に動き、織田信雄を利用して織田信孝を尾張内海野間に滅ぼし、長宗我部元親征伐に向け始動する。そして、大坂城の築城を開始した。翌天正十二(1584)年には徳川家康と交戦状態に入り、小牧・長久手で戦闘を交えるが決着は付かなかった。そして同年九月には木村秀俊を使者として、上杉家との好誼を求める起請文を送ってきた。これには伏線があるので、巷説ではあるが少しご紹介する。 先述の通り、景勝は柴田勝家攻略の際には秀吉に協力してはいるのだが、臣従したわけではなく、あくまで対等の立場における協力であった。さらに景勝は「輝虎(謙信)公が切り従えた国々のまだ五分の一も手にしていないのに、天下に名を響かせている秀吉と誼を結んで残りの国々を平定しても、世間は景勝の実力で取ったのではなく秀吉の威光で平定したと言うであろう。それでは面白くない」と言ったとも伝えられており、このへんに景勝のプライドが見え隠れして興味深い。どうやら彼は相当頑固というか、芯の強い一面を持った武将だったようだ。 そして秀吉の起請文と佐々成政攻略の協力要請に対して、 「魚津城は成政のために落とされた。当時は国内の事情で彼と雌雄を決することが出来なかったが、越中は我ら累代の所領につき、必ず成政を滅ぼして見せよう。しかし、この国を討つことは秀吉公と争っているようにも思われる。私としてはそうは思われたくないが、さりとて一度も成政と戦わずに秀吉公の希望にというのも面子に関わる。ここは一度越中に出陣し、越後武者の弓矢の執り様をあなた(木村秀俊)にお見せした上で、都への餞といたそう」 景勝はこう言うと、本当に八千の兵を編成して十月二十三日に越後を出陣、成政方の越中宮崎・境城を一気に攻め落として滑川城へ迫り、守将を配した上で諸所に放火して引き上げるという示威行動を起こしたのである。成政は九月に秀吉方前田利家の属城で、奥村助右衛門永福の守る能登末森城攻略に失敗して孤立しており、防戦に徹したが景勝の行動を目のあたりにして窮し、翌月二十三日には決死の覚悟で家康に助けを求めるべく「さらさら越え(ザラ峠越え)」を敢行することは有名である。 越水の会 成政は苦労して浜松の家康のもとにたどり着くが、すでに家康は二男於義丸(後の結城秀康)を質に出して秀吉と講和した後で、失意のうちに帰国することになる。この時点で秀吉は従三位大納言に叙されており、翌天正十三年三月には正二位内大臣に、七月十一日には従一位関白にと、驚くべき早さで位を極めていった。 さらに軍事面では自ら出陣して四月末までに紀州をほぼ平定、七月には弟秀長を四国討伐に向けて長宗我部元親を降伏させ、八月には金森長近を派遣して飛騨三木氏を滅ぼし、ついに同月二十九日(二十日とも)に佐々成政をも軍門に下した。そして、その足で秀吉は、石田三成・木村秀俊と雑兵を三十八人を伴っただけの「丸腰」状態で、ふらりと景勝の臣須賀修理亮の守る越後越水城下に現れた。 秀吉は須賀とかねて顔見知りの木村秀俊に呼び出させ、出てきた須賀に直接会い、景勝との面談を求めた。面食らった須賀はただちに糸魚川に在陣していた景勝に早馬を立て、丁重に秀吉を城内に導いてもてなした。報を受けた景勝は、須賀からの「もし秀吉を害するならばお手を煩わせるまでもなく私が討ち取ります」という申し出には耳を貸さず、ただちに秀吉に会いに行くが、このときの彼の様子が巷説にこうある。 「もはや天下の権を司る秀吉が、この戦国の中に数多くの難所を越えてはるばる越後までやってきたのは、ひとつは先年の約を違えず景勝と誼を結ばんため、ひとつはこの景勝が卑怯な振る舞い(暗殺)をしないと信じてこそ来たのである。それをここで討ち取ってしまっては、景勝が今までに取った弓矢の名を汚すであろう。ここは彼と会談して望み通りに親しくなるか、さもなくば、一旦彼を帰した上で、改めて正々堂々と勝負を決するべきである」 こうして景勝は直江兼続・藤田信吉・泉沢久秀らを伴い、七十人余の人数で越水城へと向かった。 城内で一通りの挨拶の後、秀吉・景勝・石田三成・直江兼続の四人だけとなり、四時間に及ぶ密談を行ったという。ここで両者の間で何が語られたのであろうか。私見だが、景勝はここで正式に秀吉への臣従の意を表明したのではないか。天正十一年に養子で上条政繁の子亀千代を秀吉のもとへ送った時点で臣従したとも言われるが、私としてはここでと考えた方がしっくりくるような気がする。たぶん秀吉としては高圧的に「臣従せよ」とは言わず、「長く誼を結ぶ」「景勝殿の力を借りたい」といったような表現であったろう。しかし、もはや官位も勢力も、あまりにも違いすぎた。秀吉としては景勝の臣従はもう、時間の問題かつ予定のシナリオであったと思う。 そしてこの時、後に大きくクローズアップされる石田三成と直江兼続が初めての出会いの場を持つ。三成・兼続ともに二十五歳の時のことである。これを世に「越水の会」と呼ぶ。 |