会津から米沢へ

兼続は苦戦しながらも前田慶次郎・水原親憲らの活躍で撤兵に成功、会津に戻ります。しかし、もはや情勢は如何ともなし難く、景勝はついに家康の呼び出しに応じて上洛します。


壮絶な退却戦

 兼続は急ぎ撤兵した。そして追撃に出た最上・伊達勢と須川でまたまた大激戦を演じる。この際の戦死者の数は、上杉側の記録では最上方二千百、最上側の記録では自軍六百二十三、上杉方千五百八十というから、多少の誇張を考慮しても、まれに見る大激戦であったことは疑いない。そして、この退却時の殿軍を務めたのが、前田慶次と水原親憲である。

 兼続は執拗に食らいついてくる最上勢に手こずり、なかなか思うような退却が出来ない。と、その時のこと、彼がいら立って悔しがっていたところへ前田慶次が駆けつけ、兼続の馬前に立ちはだかった。
「ここは我らに任せて下され。さ、早う」
 兼続と代わって殿軍を引き受けた慶次は、鉄砲隊を率いて最上勢をくい止めていた水原のもとへ駆けつけた。すぐ前は敵陣で、正に「にらみ合い」といった表現のふさわしい緊張した空気が張りつめていた。
「前田殿、馬を下りてかかられよ。援護射撃いたす」
「心得た! 水原殿、よろしゅうお願い申す」
 慶次はさっと馬から飛び降り、大身の槍を手に、「朱槍の勇士」として知られる水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人を率いて駈けだした。
「前田慶次だっ!」
 慶次は大音に名乗りを上げると、槍を振りかざしながら、錐を揉み込むように敵陣へ突っ込んでいった。四人も喚き叫びながらこれに続き、当たるを幸いと敵をなぎ倒す。そこへ富上山中腹に配置された水原鉄砲隊二百が一斉に火を噴いた。
 慶次らは縦横無尽に働いた。水原の援護射撃も敵に打撃を与えた。そして物別れとなり、慶次は自ら下知して残兵を撤収させたのである。この激戦では、敵大将最上義光も兜に銃弾を受け、命は落とさずに済んだものの、篠垂(兜の一部)が吹き飛ばされるほどであったという。

 こうして慶次らの活躍で、兼続はなんとか十月四日に米沢へ帰り着くことに成功した。しかし、上泉泰綱を戦死させるなど、その損害は大きかった。


会津から米沢へ

 景勝は兼続とともに会津で事態の成り行きを見守った。そして、彼の生涯で最大と言って良い岐路に立たされたのである。
 武門の意地を貫いて決戦し玉砕するか、それとも家名の存続を優先させて家康に膝を屈するか。景勝は熟考の末、降伏の道を選んだ。もちろんこれには兼続の意向が働いていることは言うまでもない。景勝はひょっとすると玉砕の道を選ぼうとしたかもしれないが、今回ばかりは兼続が強く降伏を勧めたような気がする。

 程なく、家康の策士本多正信から、上杉家の伏見留守居役の将・千坂対馬守景親を通じて降伏の労をとろうと申し入れがあったことも、景勝に決断させた要因のひとつだったかもしれない。そして兼続はこの機を逃さず結城秀康に取り入り、遂に翌慶長六(1601)年八月十六日、景勝は意を決して大坂城の家康のもとへ兼続とともに伺候したのである。
 家康の決断は早く、上杉家は改易は免れたものの、同月二十四日付けで会津百二十万石から米沢三十万石へと減封された。これとて、本来なら家は改易、兼続は切腹を申し渡されても仕方がないくらいだったが、やはり家康は兼続の人物を買っていたのであろう。

 この間に毛利輝元は防長二国に減封されて子の秀就を江戸へ人質として送り、真田昌幸・幸村父子は死一等は減じられたものの高野山へ配流され、島津義久は島津忠長と新納旅庵を名代として上洛、義弘の西軍加担を謝罪して今後の忠誠を誓う誓書を差し出しており、もはや家康に抗しうる勢力は、大坂城の豊臣秀頼を除き、事実上なくなった。
 景勝は十一月二十八日、米沢へ入った。ここに彼の長かった「関ヶ原」は、ようやくその幕を下ろしたのである。


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