景勝の人物総括

冬の陣が和睦となったのも束の間、家康は再度戦いに持ち込み、遂に豊臣家を滅ぼします。景勝は夏の陣では直接戦闘には加わっておらず、戦後は領内の整備を進め、八年後の元和九(1623)年に景勝は米沢で静かにその生涯を閉じます。


景勝の人物総括

 夏の陣では、もはや景勝の出番はなかった。そして元和元(1615)年五月八日、ついに大坂城の秀頼母子は自刃し、豊臣家は滅ぶ。ここではまだ触れていない景勝のエピソードを二、三あげて、人物総括とする。

 関ヶ原の後、程なく徳川秀忠が景勝の屋敷に臨むことになった。そこで景勝が言うには、「我らは田舎者で作法などもわきまえていない。ついては本多正信殿に万事お任せしようと思うので、全て指図していただきたい」。こう言って家臣をすべて下屋敷に移し、景勝と直江兼続のみ屋敷に居残り、門番から料理人に至るまで全て秀忠配下の衆を入れたため、秀忠は非常に喜び、家康共々内外に「景勝は分別者である」と褒めたという。

 大坂の役の起こる少し前のこと、徳川の老臣達は、浪人どもが大坂に集結しないように、所々に関所を設けて大坂へ行かせないようにしてはどうかと評議した。これを聞いた家康は、「大坂に行く者を禁じる理由はない。このようなことは、今の世には上杉景勝なら予の思惑と一致しておるであろう」と言い、本多正信を遣わせて談合させた。景勝はこれを聞き、こう答えたという。
「浪人どもは一揆と同じ、人数が少なければ一致団結することはあるが、結局は少人数なのでどうということはない。大人数になれば、必ず内輪でもめ事が起こり一丸とはならないので、これもまた心配する必要はない。要は武功の誉れある武将の動向で、それさえきちんと対処していれば、関所など作って大坂行きを禁じなくとも良い」
 景勝のこの言葉により、関所の話は立ち消えになったそうな。

 冬の陣でのこと、家康は景勝の受け持つ鴫野口を巡回した。上杉家の陣所では道筋に砂を盛り水を打ち、綺麗に掃除した上で、景勝の傍らには直江兼続がただ一人平伏して家康を迎えた。家康は「さぞ苦労されたことであろうの」と声を掛けたところ、景勝は「童の争いのようなもので、骨を折ることなどありませぬ」と答えたという。

 最後に有名なエピソードでこの稿を締めくくることにする。彼は猿を飼って可愛がっていたのだが、この猿はよく人の気持ちを理解することが出来た。ある時景勝が部屋に入ってみると、この猿が彼の脱いだ帽子をかぶり、彼の座所に上って腕を交差し、うむうむと頷いてあたかも家臣に指図するような素振りをしていた。これを見た景勝は初めてにっこりと笑ったのだが、左右の近臣達が彼の笑顔というものを見たのは、後にも先にもただこの一回限りであったという。

 偉大な養父謙信の陰につい隠れがちな景勝だが、こと家臣の掌握にかけては決して謙信に劣らないと思う。ひょっとすると人間的な芯の強さは謙信以上だったかもしれない。名執政直江兼続との二人三脚で戦国の荒波を乗り切り、決して卑屈な態度はとらず、減封されはしたが見事に家を残した。

 大坂の陣終結により、徳川家の天下は盤石となった。その後景勝は米沢で国造りに励み、元和九(1623)年三月二十日、米沢城中にて静かにその激動の生涯を閉じた。

上杉景勝、享年六十九歳。廟所は謙信と共に、米沢と高野山にある。


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