狂歌・落首編 その1(元亀年間以前)

ここでは戦国前期(元亀年間以前)に関する狂歌や落首などを、管理者の独断によりピックアップしてご紹介します。横書きご容赦下さい。


きこしめせいよいよ乱をおこし米 又はほりほり又はほりほり
ながらへばまたみよしをやしのばまし うきかうさいぞ今はこひしき
京中はこのほどよりもあふりかふ 今日もほりほり明日もほりほり
花ざかり今は三好と思ふとも はては嵐の風や散らさん
 

これは永正四(1507)年、細川澄元が澄之を京都に攻め滅ぼした頃に山城の農民達の詠んだ落首である。彼らはそれまでは細川澄之党の香西元長の嵐山城築城に、こんどは澄元の屋形や三好之長の私邸の堀を造るためにと立て続けに徴発された。「今日もほりほり明日もほりほり」の部分に、農民達が毎日嫌々働かされている様子がよく見て取れる。(『細川大心院記』)


はげしかりし嵐の風は音たえて 今をさかりのみよしのの花
 

これも上の落首と同時期に詠まれたもので、「はげしかりし嵐の風」とは前嵐山城主の香西元長を指し、「みよしのの花」は新しい権力者となった三好之長にかけているが、その三好氏政権にも「栄えるのも今のうち」と好意的ではない。山城の農民達にとっては、元長にせよ之長にせよ、夫役を押しつける「有り難くない領主」だったのである。(『瓦林政頼記』)


洛中に今年は種々の大ばやし 河原ばやしぞ興はさめけり
 

永正十七(1520)年、三好之長・細川澄元派と対立し、その死後に実権を握った細川高国が、その有能な武将でかつては高国のために奮戦した河原林(瓦林)政頼らに、以前に澄元に通じたという疑いから京都で切腹を命じた。これはそのいきさつを聞いた洛中の人々が政頼の死を憐れみ、また高国の不人情な処置を批判した落首という。


立ちよりて影もうつさじ流れては 浮世を出る谷川の水
 

大永元(1521)年九月、元播磨守護赤松義村は、細川高国の画策する将軍擁立問題が絡み、その家臣で三年前から対立していた守護代の浦上村宗によって室津に幽閉され、やがて切腹させられてしまう。これは死の直前の室津幽閉中に義村が詠んだ歌で、もはや辞世の句と言っても良い内容である。(『後鑑』)


たぞやこの鳴門の沖に御所めくは 泊り定めぬ流れ公方か
 

これは流浪の後半生を送った室町幕府十代将軍足利義稙を諷刺した落首である。「泊り定めぬ」というところに、管領細川政元に背かれて越中・周防・和泉・淡路と流れ、大永三(1523)年に阿波撫養(むや)で五十八歳の生涯を閉じた「流れ公方」義稙のわびしさがよく表れている。(『陰徳太平記』)


近江までとらんといづる木沢殿 いひもり山を人に食はるな
 

享禄三(1530)年、河内では細川高国派の畠山稙長と細川晴元派の畠山義英が鎬を削っていたが、これは義英の軍事司令官木沢長政が、本城河内飯盛山の守備をおろそかにしたまま戦おうとしたことを、洛中の人々が「飯盛山」を一椀の飯にたとえて「人に食はるな(留守中に城を取られるな)」と皮肉った落首である。


とき世とて聟(むこ)をころすは身のおはり むかしはおさだいまは山しろ
 

享禄三(1530)年正月、美濃において斎藤道三(当時は西村勘九郎改め長井新九郎正利)は長井長弘夫妻を殺害して長井家を乗っ取った。これはその際、そのあくどいやり方に眉をひそめた民衆が詠んだ狂歌で、「とき」は土岐、「おさだ」とは主人の源義朝と聟の鎌田政家を謀殺した長田忠致、「山しろ」は山城守道三にかけている(『醒睡笑』)。『信長公記』では上の句は「主をきり聟をころすは身のおはり」とある。


昔より奇特(きどく)ありまの湯ときけど 腰折れ歌は直らざりけり
 

これは当時の和学・歌学の第一人者として知られる三条西実隆が詠んだ歌である。実隆が養生のため有馬温泉へ行ったとき、歌の批評をお願いする者がいた。しかしどれもまずい歌ばかりだったので、あきれた実隆がこう詠んだという。余談だが、有馬温泉は金泉(強食塩泉)・銀泉(炭酸泉)と呼ばれる2種類の泉源を持つ、秀吉お気に入りの名湯である。(『醒睡笑』)


あしからじよかれとこそたゝかはめ など難波田のくずれ行らん
君をゝきてあだし心を我もたば すえの松山波もこえなん
 

天文六(1537)年四月、武蔵河越城で扇谷上杉朝定が病歿、これを期に策動を始めた北条氏綱は、同年七月に大兵を動員して河越城を攻略、その勢いで松山城を包囲した。これはその際に北条方の山中主膳と松山城代の難波田憲重がやりとりしたとされる歌である。事の真偽はともかく、当時は合戦中にもこんな場面があったようだ。(『北条五代記』)


ときはれど糊たてもせぬ四布(よの)袴 三布は破れて一布にぞなる
 

天文十一(1542)年五月(八月とも)、美濃守護土岐頼芸は斎藤道三によって尾張へ追放され、のち一時帰国するが再び追い出されて越前・甲斐・上総などを流浪した。これはその際詠まれた落首で、「ときはる(解き張る)」は「土岐はる」に、「三布(みの)」は「美濃」に、「一布(ひとの)」は「人の」にそれぞれかけられている。(『醒睡笑』)


やりなはを引きずりながらひろき野を 遠ぼえしてぞにぐる犬山
 

これは天文十八(1549)年正月、尾張犬山城主織田信清が楽田城主織田寛貞とともに織田信秀領柏井に侵攻、信秀は末森城から出陣してこれを撃退するという出来事の際に書かれたという落首である。「やりなは(遣縄)」とは犬の引き綱のことで、退却する犬山勢を遠吠えしながら逃げる負け犬に例えている。(『信長公記』)


川舟をとめて近江の勢の来ず 問はんともせぬ人を待つかな
 

これは天文十八(1549)年六月、三好長慶が細川晴元方の三好政長と摂津江口で戦った際、長慶の弟十河一存・安宅冬康に糧道を絶たれて孤立した政長が、援軍に来るはずの近江六角定頼勢を待ちこがれて詠んだものという。しかし援軍は間に合わず、同月二十四日に長慶勢の総攻撃を受けて政長は戦死する。


尼の子の杖柱たる鬼神も 盲打ちにぞ討たれけるかな
 

これは天文二十三(1554)年十一月、尼子晴久が一族である新宮党の国久・誠久父子を殺害した際に詠まれた落首である。この裏には毛利元就が偽の琵琶法師を富田城内に潜入させ、動静を探らせて成功したという謀略があったとされ、それを「盲打ち」にかけている。なお、「鬼神」とは武力に優れた新宮党頭領の国久のことを指す。(『雲陽軍実記』)


子指皆切れば大指只壱つ 相手なければ刀握らじ
 

これも上と同時期に詠まれた狂歌で、尼子氏は先の天文元(1532)年に経久三男の塩冶興久が待遇の不満から叛乱を起こして攻め滅ぼされ、今また新宮党が粛清された。次々と内紛で一族の有力武将が消えていく様を眺めてきた人々が、もはや尼子家の滅亡もそう長い先のことではなかろうという思いを表したものである。(『雲陽軍実記』)


類親のくびをきりぬる義龍が 殺人剣を今ぞもちいる
紫野ゆかりたのめど別傳を みながら人はあわれとはみず
大海を知ぬもどうり義龍は ただ井口のかいるなりける
 

美濃国主斎藤義龍は弘治年間、妙心寺第三十四世の別傳に深く帰依し傳燈寺を建立、そして永禄三(1560)年十二月に国内の禅寺をこの下に属させようとして快川紹喜らと対立、将軍義輝をも巻き込んだ混乱を招いた(別傳の乱)。これらはその間に稲葉山城下井ノ口に見られた様々な落首の一部である。「かいる」は蛙のことで、「井の中の蛙大海を知らず」のパロディ版である。なお義龍はこの混乱のさなかに病没する。


佐和山に百々(どど)ときこゆる雷も 伊賀崎入れば落ちにけるかな
 

この狂歌の作者は忍術書「萬川集海」にその名を残す伊賀忍者・伊賀崎(楯岡)道順である。古伝書によると、彼は六角義賢に反抗して佐和山城に籠もった百々某の討伐を義賢から依頼され、妖者の術を用いて城内に潜入し見事城を落とした。これはその際に義賢から多額の褒美をせしめた道順が、得意になって詠んだ歌と伝えられる(一説に出陣前に伊賀湯舟の陰陽師から贈られたともいう)。


苅萱の身に入む色は無けれども 見て捨難き露の下折
 

これは藤原家隆の歌であるが、桶狭間の戦いの際、今川義元がある者に先鋒の様子を見て急ぎ戻れと命じたが、もはや戦闘中だったのでその者は戦いに加わり、敵の首を一つ下げて帰ってきた。義元は勝手な振るまいだと怒ったが、彼がこの歌を詠んだところ、義元は「我が身の危うい時に家隆の歌を思い出したのはあっぱれ」と怒りを和らげて赦したという。(『備前老人物語』)


時鷹が朝夕善をなす棚に 鳶入るまめは味噌に成べし
 

これは『多湖辰敬家訓』で知られる、尼子氏の重臣・石見刺賀岩山城主多湖左衛門尉辰敬(ときたか)の詠んだ狂歌である。永禄三、四年頃のある日、辰敬の膳棚にトビが一羽飛んできて止まったのだが、彼がこの歌を詠じかけたところ、そのトビはたちまち死んでしまったという不思議な出来事が伝えられている。(『武者物語』)


年経れば白髪の糸も破れ果て 毛利の木陰の露と朽ちなん
安芸の毛利朽葉も落ちて木枯の 中に松田ぞ色を増しける
元就は白鹿の糸につながれて 引くも引かれず射るも射られず
尼の子の命と頼む白鹿糸 今ぞ引切る安芸の元就
 

これは永禄六(1563)年八月、毛利元就が尼子方の白鹿(白髪)城を攻めたときの矢文合戦に見られるものである。白鹿城を守るは豪将松田兵部丞誠保と援将の牛尾太郎左衛門久清の二千、攻めるは毛利の精兵一万五千。句中の「朽葉も落ちて」とは、この戦いの直前に元就の嫡男隆元が急死したことを指す。尼子義久は富田城から山中鹿介らを援軍に差し向けるが、結局白鹿城は落城する。(『雲陽軍実記』)


むこいりをまだせぬ先の舅入り きくていよりはたけた入道
 

永禄六(1563)年、甲斐の武田信虎の娘と京の菊亭大納言こと今出川晴季の婚約が整ったが、信虎はまだ婿入りもしていないうちに「先ず婿を見に」と、菊亭殿へ案内も請わず(連絡もせず突然に)押しかけた。これはその際に見られた落首で、「聞く体よりは猛けた入道(噂で聞く以上に荒々しい入道様じゃ)」とうまく菊亭・武田にかけている。(『醒睡笑』)


正木にて結ひたる桶のたが切れて 水も溜ぬ池の和田かな
 

これは永禄八(1565)年三月、北条氏康が上総池和田城の里見義弘家臣多賀谷蔵人を攻め破ったときの落首である。歌中の「正木」とはニシキギ科の常緑灌木で、これを援軍に馳せ参じた正木大膳時茂に、「たが」を多賀谷にかけ、里見勢が散り散りになって逃げ出した城を池和田にかけて「水も溜まらぬ池」と表現している。(『小田原北条記』)


こよこよとすりあけ物の奈良刀 みのながいとて頼まれもせず
 

永禄九(1566)年、上洛を画策する足利義昭(当時は義秋)は織田信長を頼むが周囲の状況がそれを許さず、美濃の斉藤龍興も動かなかった。これはその頃に詠まれた落首で、「すりあけ(摺り上げ)物」とは剃髪者のことで、大和興福寺一乗院から脱出し還俗した義昭のことを「奈良刀」とも併せてかけ、「みのながい」とは美濃長井つまり斎藤氏の前姓のことを指す。(『松平記』)


永禄の十の十月十日の夜 奈良の大佛焼ける亥の時
 

永禄十(1567)年十月十日、奈良の東大寺大仏殿が炎上した。当時、松永久秀と三好三人州・筒井順慶は南都を舞台に戦いを繰り広げており、そのとばっちりで大仏殿が燃えてしまったのである。年月日がすべて「十」であったことから当時詠まれたものだが、奇しくも梟雄松永久秀はこの日の十年後の十月十日に、炎上する信貴山城でその生を終えることになる。(『南海通紀』)


舞い遊ぶ千代万代(よろずよ)の扇にて 二本手に入る今日のよろこび
 

永禄十一(1568)年九月、初めて入洛した織田信長は京都東福寺に入った。このとき連歌師の紹巴や医師の曲直瀬道三ら京都の名士たちが続々と献上物を携えて伺候してきたが、その際に紹巴は末広(扇)二本を台に乗せ御前に出て「二本手に入る・・・」の句を詠んだところ、信長が上の句を付句したという。もちろん「二本」は「日本」にかけられている。(『信長記』)


無用かな人の弓箭に頼房の 首をごう木に下らしてみむ
 

永禄十一(1568)年十二月十二日、島津日新斎忠良が加世田城で病歿した。これを機に菱刈・相良連合軍は島津方に攻撃を仕掛けてきたが、島津の猛将新納忠元の守る砦には相良頼房が攻め寄せてきた。喪につけ込んで攻め寄せたことに怒った忠元が矢文にこの歌を書いて敵陣に射込んだところ、相良勢は怖れて一戦もせず退却したという。


甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河の甥倒す見よ
 

永禄十一(1568)年十二月、武田信玄は甥にあたる今川氏真を駿河から追放、氏真は妻の実家北条氏を頼り遠江懸(掛)川城に逃れたが、これはその際武田方の旗の横に貼られた落首という。武田信玄が徳もないのに大僧正を称したことに対し、「官賊」と手厳しい皮肉を浴びせている(『北条五代記』)。ただし、『改正三河後風土記』では「甲斐もなき大僧正の官職を 慾に駿河の甥倒しみよ」とある。


花よりも団子の京とぞなりにける 今日もいしいし明日もいしいし
 

永禄十二(1569)年二月、織田信長は将軍となった足利義昭の新御所(室町邸)の築造を開始、京都の町衆をその石垣普請に徴発し、巨石の藤戸石を義昭邸に数日間かけて運ばせた。これはその際、毎日石を引きずって運ぶ音がうるさかったことから、あるいたずら者が書いた落首という。「いしいし」とは女房言葉で「団子」を意味する。(『醒睡笑』)


名をかへよたけたがほすと八幡の はた打ちすててにげ田信玄
 

永禄十二(1569)年六月、再度駿河に出兵してきた武田軍は北条氏康・今川氏真に総攻撃を受けて敗れ、「八幡大菩薩」と大書した旗をうち捨てて敗走したという。この旗を拾った者が北条軍の本陣に持参すると、氏康は「敵が大敗したのはこの軍旗を見てもわかる」と大笑いし、これはそのときに作られた落首という。(『北条五代記』)


秋はてば一条冬にかかるべし 又来ん春は何と信州
 

永禄十二(1569)年八月、土佐の有力国人安芸国虎を滅ぼした長宗我部元親は、引き続きその矛先を一条兼定に向けた。そして弟の吉良親貞の謀略で一条家の家老格の久礼城主・佐川信濃守を内応させることに成功するが、これはそのときに作られた落首である。「秋はてば」は安芸国虎の滅亡に、「信州」は信濃守にかけている。(『元親記』)


城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする
 

これは元亀元(1570)年正月、毛利輝元が吉川・小早川勢を従え一万三千の兵で尼子方の出雲飯石郡多久和城を攻略したときに詠まれた狂歌である。城には尼子十勇士で名高い秋上庵介・尤道理介がいたが、両人とも毛利の威風に戦意を失い、城将多久和大和守を見捨てて城に火をかけ戦わずして敗走したことを皮肉ったものである。(『雲陽軍実記』)


信長のきては破るる京小袖 わたがさし出て見られざりけり
 

足利義昭の側近で、その将軍就任に際して活躍した甲賀の地侍和田惟政は、信長から信を得て摂津高槻城主となった。これはその頃詠まれた歌で、細川藤孝とともに当時ときめいていた惟政の様子を「わた(綿=和田)がさし出て」と皮肉っている。しかしこれも束の間、元亀二年に惟政は義昭に与して信長に背き、摂津郡山の戦いで池田知正に討たれる。(『醒睡笑』)


伊東奴が真幸の陣は桶平に 飯の欲しさにおびのゆるさよ
 

元亀三(1572)年五月、日向真幸院をめぐって島津氏との抗争が激化していた伊東義祐は、肥後相良氏と連繋して桶平に出陣、島津義弘の守る飯野城を攻めようとしたが、木崎原で義弘に惨敗して逃げ帰った。これはその際に伊東勢の本陣に立てられた狂歌といわれ、「飯(飯野城)が欲しくても、帯がゆるく(飫肥城の守備が甘く)てはだめだろう」と伊東軍を皮肉ったものである。(異説あり)


福原の都人とはききつれど 年貢諸役のしなのあしさよ
 

これは元亀三(1572)年後半頃、房総里見氏の領内に見られた落首という。里見家の田畑守方代官福原信濃という者の厳しい年貢取り立てを告発した歌で、京都出身の福原を「福原は風流な都人と聞いているが、聞くのと違って年貢や諸役が品が悪く厳しい」と訴えたものである。これを見た領主の義弘は直ちに調査の上で福原の代官職を取り上げて無役に落としたので、民衆は彼を慕ったという。(『里見軍記』)


家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八
 

これは『甲陽軍鑑』『武功雑記』など種々の資料に見られる、家康自慢の猛将・本多平八郎忠勝に関する有名な歌である。元亀三(1572)年の三方ヶ原一言坂の戦いにおいて、敗勢の徳川勢の中で兜に唐の頭(ヤクの尾の毛)を飾って奮戦した忠勝の姿に感じ入った武田方の小杉右近助という者が、戦場の見付の台に立てた落首と伝えられている。


三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城
 

これは上の歌と同じ構成の、石田三成に関するものである。島左近勝猛(清興)はかつて「筒井の左近右近」と称された元大和筒井家の家老だったが、三成がまだ近江水口四万石の小身だった頃、故あって浪人中だった彼を一万五千石とも二万石とも言われる前代未聞の破格の条件で招聘したと伝えられる知勇兼備の将である。(『名将言行録』)

 ※戦国前期・後期についてはコンテンツの便宜上区分けしたもので、特に意味はありません。


NEXT  TOP