啼かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
啼かぬなら 啼かせてみしょう ホトトギス
啼かぬなら 啼くまで待とう ホトトギス
これは説明の必要がないくらい有名な、戦国三英傑の性格を表した歌である。信長の良く言えば「果断」(悪く言えば「残虐」)、秀吉の「工夫」、家康の「慎重・忍耐」といったそれぞれの性格の特徴が、短い言葉の中にもよく表されている。
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毛利の家 わしのはをつぐ 脇柱
大永三(1523)年、安芸吉田の毛利宗家では興元の後を継いでいた遺児幸松丸が十歳で夭逝、お家騒動が起こる。重臣達は協議の上で同年八月十五日、元就を郡山城に当主として迎えたが、これはそのとき元就が入城後に連歌会を催した際に、今までの「脇柱」から「大黒柱」となった喜びを託し、発句として詠んだ歌である。(『毛利家文書』)
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朝日通れば下座して通れ 朝日輝く殿どころ
これは天文年間に丹波地方でうたわれた俚謡で、「朝日」とは天文年間に丹波朝日城を本拠とした豪族で、「丹波の赤鬼」として怖れられた赤井悪右衛門直正のことである。天文二十三(1554)年正月二日、年頭の挨拶に伯父の荻野伊予守秋清を黒井城に訪ねた直正は、かねてからの計画通りこれを刺殺して城を奪い取り、以後ここを本拠とする。
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保科弾正鑓弾正 高坂弾正逃弾正
これは武田家の重臣を歌った甲斐の俚謡(童謡)である。保科弾正忠正俊は信濃先方衆騎馬百二十騎持ちの侍大将を務めた信濃高遠城主で、高坂弾正忠昌信(春日虎綱)は信玄の小姓から譜代家老衆四百五十騎持ちとなった信濃海津城代である。武田家には他に「攻め弾正」の異名を持つ真田幸隆もいるが、この歌には謡われていない。(『名将言行録』)
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仏高力 鬼作左 どちへんなしの天野三郎兵衛
これは永禄八(1565)年三月に設けられた、徳川家の「岡崎三奉行」に関する俚謡である。高力清長は三河一向一揆勃発時に仏像や経巻を戦乱から守り、後に赦された人々に戻してやったことからこう呼ばれて慕われ、本多重次は呼び名の如く諸事に容赦なく、天野三郎兵衛(康景)は片寄りがなく公正であることを簡潔に表したものである。(『名将言行録』)
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一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ
これは簡潔な文章の理想とされる、上記「鬼作左」こと本多作左衛門重次が妻に宛てた有名な手紙である。彼は家康の上洛と引き替えに秀吉の母大政所が浜松へ来たとき、宿所の周囲に枯柴を積んだというエピソードを持つ典型的な三河武士の硬骨漢で、「お仙」とは子の仙千代(後の飛騨守成重)のことを指す。正しくは「一筆申、火の用心於仙痩さすな、馬肥やせかしく」。(『名将言行録』)
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蛇もハミもそちよれ 隼人様のお通りじゃ
これは長宗我部元親の家臣福留隼人儀重を歌った土佐の俚謡である。「ハミ」とはマムシのことで、土佐の子供達は草むらを通るときに蛇よけのまじないとしてこう歌ったと伝えられる。儀重は飛騨守親政の子で、親政も永禄六年に安芸国虎が岡豊城に攻め寄せたとき、『土佐物語』では二十人、『元親記』では三十七人を討ち取り、「福留の荒切り」と呼ばれる活躍をした猛将である。
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木綿藤吉 米五郎左 掛れ柴田に退き佐久間
これは織田家の四重臣に関する童歌で、藤吉(秀吉)は見栄えはしないが木綿のように何にでも使えて便利、五郎左(丹羽長秀)は派手ではなくとも米のように必要不可欠な存在、柴田(勝家)は戦いで常に先頭に立って活躍し、軍を返すときは慎重な佐久間(信盛)に任せるに限る、といった意味の歌である。(『翁草』)
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浅井が城は小さい城や ああ善い茶の子 朝茶の子
浅井が城を茶の子とおしゃる 赤飯茶の子 強(こわ)い茶の子
信長殿は橋の下の泥亀 ヒョッと出て引込み ヒョッと出て引込み
も一度出たら首を取ろ
元亀元(1570)年に近江姉川の戦いで信長は徳川家康とともに浅井長政を破ったが、これは信長が引き続き長政と対峙中の同三(1572)年、両軍の若者達が虎御前山と小谷城から出て、田川野まで来て踊りながら掛け合いで歌ったと伝えられるもので、三番目の歌は草刈りの際の童唄として後々まで歌われたという。(『浅井三代記』)
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徳川殿は良い人持よ 服部半蔵鬼半蔵 渡辺半蔵鑓半蔵
渥美源吾は首取り源吾
これは徳川三勇士に関する童歌で、服部半蔵正成は伊賀忍者の頭領ながら徳川十六将の一人に数えられ、渡辺半蔵守綱は永禄五年の三河八幡の戦いでの活躍以来「鑓半蔵」と呼ばれた。渥美源五郎勝吉は父重経(青木一重の弟)とともに大須賀康高配下の勇士として知られ、初陣の長篠合戦を始め数々の合戦で活躍している。(『改正三河後風土記』)
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時は今 あめが下しる五月哉
これも明智光秀が本能寺の変直前の五月二十八日に、里村紹巴らとともに愛宕山で百韻連歌を催した際に発句として詠んだ有名な歌である。「時」は光秀の出自とされる土岐氏にかけ「土岐氏が天下を手中にする」意とされ、『信長公記』では前日に気の迷いからか二度三度とおみくじを引いた光秀の姿が書かれている。
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如何是剣刃上 紅炉上一点雪
これは天正十二(1584)年三月、肥前島原沖田畷の戦いで島津家久・有馬晴信連合軍に敗れ討死した龍造寺隆信の最期に関わるものである。敗勢の中、鎧の上に袈裟を掛け床几に腰掛けていた隆信の前に島津方の将川上左京亮が立ち「如何是剣刃上」と言葉を掛けると、隆信は「紅炉上一点雪」と応え、左京亮は三拝して静かに首を討ったという。(『肥陽軍記』)
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遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎
これは塙団右衛門の残した漢詩である。本多忠政のもとを去った彼は次に伊予松山の加藤嘉明に仕えたが、関ヶ原の戦いの際に軍の進退で嘉明の勘気に触れ、「大将の器ではない」と言われたことに腹を立て致仕した際に詠んだものである。団右衛門はこののち奉公構い(どの大名にも仕官できないようにする処分)とされてしまう。(『武家閑談』)
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一鞭遅到勿肯怒 君駕大竜我鉄牛
これは奉公構いとなり浪人した塙団右衛門が、京都妙心寺の大竜和尚のもとで僧となり鉄牛と称していた頃の詩である。招待された家に遅刻し、和尚から怒られたときに詠んだもので、「少しの遅刻で怒らないで下さい。あなたは大きな竜に乗ってきたからいいけれど、私は鉄の牛なのでノロいのです」という洒落っ気あふれる詩である。(『武家閑談』)
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花のやうなる秀頼様を鬼のやうなる真田が連れて 退きも退いたり鹿児島へ
これは特に説明の必要はないであろう。元和元(1615)年の大坂の夏の陣直後に上方で流行った、秀頼・幸村の生存を願う人々の気持ちを表したと言って良い童歌である。徳川の世となっても、まだまだ大坂には豊臣贔屓の人々も多く、事実秀頼と幸村は生きて島津家に匿われていると信じる人々が多くいたという。
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