この稿では中近世の興福寺と、応仁の乱以前の筒井氏はじめ大和国人衆の動向についてご紹介します。 |
大和永享の乱 応永二十一(1414)年、興福寺衆徒・学侶が幕府に国人衆の私闘停止を求めて訴え、幕府はこれを受け衆徒・国人衆を京都に呼んで私闘をしないことを誓約させた。これにより、大和国人衆は形の上では室町幕府の直参となった。 しかしこれによって平穏になったわけではなく、永享元(1429)年七月以降、豊田中坊・井戸両氏の争いに端を発して他の国人衆も巻き込んだ戦いとなり、十年に及ぶ抗争が繰り広げられた。これが大和永享の乱である。筒井氏は十市氏らとともに井戸方につき、豊田中坊方には箸尾・越智・万歳・沢・秋山氏らが加担した。戦いの結果筒井氏は敗れ、所領を焼き払われてしまう。 この戦いではご覧の通り箸尾氏は筒井氏と敵対しており、同四年九月には越智氏とともに筒井氏を破っている。しかし同年十二月に光宣の訴えで幕府が介入し、越智氏討伐軍を下向させたことから形勢は逆転した。同九年五月には幕府軍と越智・箸尾軍が大合戦に及ぶが、翌十年八月に幕府軍が越智方の多武峰を攻め落とし越智氏は逐電、ようやく乱は終息に向かった。 しかし筒井方でもこの乱の最中の永享六(1434)年八月、筒井順覚が戦死する(註1)。翌年三月に順覚の子が西大寺の僧から還俗して跡を嗣ぎ順弘を名乗るが、順覚が足利義教から宛われた河上五ヶ関務代官職をめぐって弟の成身院光宣の間で内紛が起こり、順弘は立野氏(現奈良県三郷町を本拠とする国人)を頼って没落した。筒井氏は京都相国寺の僧であった順弘・光宣の弟が還俗して順永を名乗り惣領となるが、嘉吉三(1443)年まで兄弟の争いは続く。順弘は同年正月には越智氏の加勢を得て筒井城を奪回するなど巻き返しに出るが、翌二月に一族・内衆に背かれて同城において殺害され、光宣・順永も幕府の追求により没落・逐電した。 同年九月には古市・豊田・小泉氏と光宣・筒井実憲らが南都で戦うが、筒井方は敗れ光宣は筒井館に退く。さらに幕府の指示により奈良中は大乗院門跡経覚のもとで先の三氏の支配下となり、光宣は罪に問われ河上五ヶ関務は幕府の直轄となった。これ以降、興福寺大乗院門跡・経覚と光宣・順永の間で抗争が続く。 【註1:筒井順覚の死を応永二十九(1422)年五月とする説もある。】 大乗院経覚との抗争 大乗院門跡・経覚なる人物は関白九条経教の子で興福寺別当職にあり、時の本願寺門跡・蓮如兼寿の従兄弟にあたる。蓮如の師でもあり、宝徳元(1449)年に九条満家が没した際には、まだ幼かった成家・政基の後見役を務めるなど、当時の大乗院のトップとしてなかなかの実力者であり、また策謀家だったようである。 その経覚が著した『経覚私要鈔』嘉吉四(1444=文安元)年正月二十三日条に以下の記述がある。 「一當國衆悉馳向可責落筒井之由、十六人ニ被下地云々、宝来 龍田 古市 小泉 木津 豊田中 十市 箸尾 岡 嶋 片岡 超昇寺 番条 布施 越智 巳上十六人 ○人数合ハズ、一人書落セシモノカ」 これは経覚が越智氏を中心とする十六人の衆徒・国民に下知して筒井館を攻略させた記録で、中には筒井党にあるはずの「嶋」の名が見える。もし島氏が経覚の下知に従っていたならば、この頃島氏は反筒井派だったか、あるいは一族が分裂してその一部勢力が筒井氏と交戦していたのかもしれない。しかし箸尾宗信は当時筒井氏と婚姻関係があり筒井方で、島氏を含むこれら国人衆がすべて経覚の下知に従ったわけではないようである。 同年二月、越智氏が筒井館を攻撃するが筒井勢の反撃に敗れた。経覚は一旦嵯峨の往生院に逃れたものの六月には再び奈良に戻り、鬼薗山(きおんやま)に城を築いて再び筒井方に対抗する。しかし翌年九月には筒井順永が鬼薗山城を攻略、経覚以下は自焼没落した。これにより成身院光宣は河上五ヶ関務代官職を回復し、経覚は古市城に拠って対抗する。 やがて経覚方・筒井方に和解の動きが進み、享徳三(1454)年十二月には両者が対面する運びとなった。ようやく事態は落ち着いたかと思われたがそれも束の間、翌四(康正元)年三月に畠山持国が没したことから河内畠山氏の内紛が表面化、筒井氏はじめ大和国人衆はこの影響をまともに受けて二派に分かれて戦うことになる。 大和国人衆は形式上幕府の直参となっていたものの、実体は幕府や以下に述べる畠山氏の内紛に便乗する形で戦いの名分を求め、それぞれの勢力拡大に利用して抗争を繰り広げていたのかもしれない。 河内畠山氏の内紛 当時、権勢無双と言われた畠山持国には実子が無く、文安五(1448)年十月頃に一旦異母弟の持富を養子として家督を嗣がせることにした。しかし十一月になって急遽当時十二歳になる庶子の義就を元服させて惣領とすることに決したため雲行きが怪しくなる。 享徳三(1454)年四月、義就の家督相続に反対する遊佐・神保・椎名氏らが持富の子弥三郎を擁立しようとする動きが発覚、持国・義就らに攻められ弥三郎は没落する。しかし細川勝元の支援により同年八月に反撃、京都の持国館を襲撃し、持国は隠居、義就は没落した。この結果弥三郎は将軍家より家督相続を認められるがそれも束の間、同年十二月にはまたもや形勢は逆転、将軍の赦免を受けた義就が上洛して弥三郎は没落する。 翌四年六月、持国が没すと義就・弥三郎両派による内紛はもはや表面化し、大和国人衆もそれぞれの企図するところにより両派に加担して抗争を繰り広げた。弥三郎は長禄三(1459)年九月に没したため跡を弟の弥二郎政長が嗣ぐが、持国の実子義就と養子政長の家督相続争いは激化の一途を辿り、後の応仁の乱のひとつの契機となっていく。そして翌四年十月十日には義就が大和竜田(現奈良県斑鳩町)に布陣する政長と筒井勢の陣に攻め寄せ、この一手が平群谷(へぐりだに=現奈良県平群町)の島氏を襲うという事態が発生した。島氏は平群谷福貴寺庄を本拠とする国人で早くから筒井党の一員に属しており、後には石田三成の家老として活躍したことで知られる島左近清興が出る。 この戦いでは政長方に属す筒井・島氏が共に勝利を収めた。仮に島氏は先の経覚の下知に従っていたとしても、この頃までには筒井党に復していたものとみられる。経覚自身が記した記録には以下のようにある。 「一酉初黒占ニ古市方より以片山弥九郎申給云、昨日自畠山右衛門佐(義就)龍田へ押寄候、於西口有合戦、先陣越智備中守家國・彦三郎・同末子彦左衛門以下被打了、是筒井(順永)弥次郎後政(攻)ヲ沙汰之間陣破故也、惣勢五百計寄畢、備中(越智)・彦三郎(高取越智)以下被打、残分三百計川鍋山(神奈備山=三室山)ニ取上テ取陣之処、弥次郎(政長)方勢筒井以下六時分より河鍋山ヲ取巻責戦之間、譽田遠江(全寶)入道・遊佐河内守國助・三宅以下大略被打了、畠山右衛門佐者信貴山へ取上、先陣戦破之間嶽山ヘ引籠トモ申、又不知行方ト云説■(在カ)之云々、又一手部栗(平群)嶋城ヘ押寄者ハ遊佐内者中村ト云者也、沙汰損テ中村以下大略被打云々、仍頸共上京都由有風聞云々、其後自方(〃脱カ)申賜畢」(『経覚私要鈔』長禄四年十月十一日条・註は後補) 簡単に大意を記すと、「十月十日に畠山義就が五百ばかりの兵で大和竜田に陣する畠山政長・筒井方に攻め寄せ、西口という所で交戦した。先陣の越智備中守らは筒井順永の後詰めに敗れて討死した。残った三百ばかりの兵は川鍋山に陣を取り直すが、筒井勢に敗れて譽田遠江らが戦死したため義就は信貴山へ退き、その後河内嶽山城(現富田林市大字龍泉)へこもったとも行方不明になったともいう。また義就方遊佐氏の臣中村某が別働隊を率いて平群嶋城を襲うが失敗、中村は討死して首は京都へ送られたという噂だ」ということである。 この後文正元(1466)年十月には越智・吐田・曽我高田・小泉延定房・高山・万歳・岡氏は義就方へ、筒井・成身院・箸尾・布施・高田氏と多武峰衆は政長方についている記録が見られ(『大乗院寺社雑事記』同年十月五日条)、この状況で翌年に起こる応仁の乱を迎えたと見て良さそうである。 |