ようやく柳本賢治・木沢長政の侵入から解放されたかと思う間もなく、今度は松永久秀が大和へ侵入してきました。筒井城から椿尾上城へ追われた筒井氏は、これ以後長きにわたって久秀と戦うことになります。 |
松永久秀の侵入 永禄二(1559)年八月、三好長慶は河内守護代安見直政を高屋城に攻め、紀伊に逃れていた畠山高政を同城に迎えると、勢いに乗って重臣松永久秀を大和に派遣し筒井・十市氏らを攻めさせた。松永勢は六日に筒井城を落とし、筒井藤勝(後の順慶)らは久秀勢に破れて東山内へと没落した。久秀は信貴山城(写真左)を再築してこれを本拠とし、本格的に大和支配に乗り出した。 久秀は永禄三年二月四日に弾正少弼に任ぜられ、翌四年には従四位下に昇り将軍義輝の相伴衆となるなど勢いを増し、続いて南都に多聞山城を築き大和国人衆ににらみを利かせた。ちなみに従四位下といえば、主君三好長慶(天文二十二年三月任官)と同位である。さらに同八年五月、久秀は三好三人衆らと謀り将軍義輝を室町御所に攻め殺し、その弟で興福寺一乗院門主覚慶(後の足利義昭)を同院に幽閉するという荒技を演じる。 同年十月、丹波の波多野晴通らが荻野(赤井)直正に応じて山城へ出陣してくると、久秀は配下の竹内下総守秀勝を山城へ派遣して撃退するが、これを機に大和国内は騒然となった。反松永派の大和国人衆は多聞山城包囲網を形成し反撃の様相を呈すると、久秀は山城から帰陣した秀勝をこれに備えさせた。この竹内下総守秀勝なる人物は、清和源氏義光流の公家で享禄元年より洛中の傾城屋(遊女屋)の公事銭徴収役を務めた竹内季治入道真滴の弟ともいわれ、詳細な履歴は不明だが早くから久秀に属していた模様である。永禄十二年(年代は比定)三月二日には摂津多田院宛に織田信長配下の佐久間信盛・柴田勝家・森可成らと連署状を発給しており(『多田院文書』)、久秀配下の野間長前とともに信長からも一目置かれていた人物であったことが窺える。『多聞院日記』の著者英俊とも交流があったようで同日記に頻繁に登場し、元亀二(1571)年九月二十二日に河内若江で没するまで(同日記)、久秀の重臣として活躍したようである。 松永久秀の大和支配 永禄十年、南都を舞台に繰り広げた松永久秀と筒井・三好三人衆等との戦いが続く中、十月十日には東大寺の大仏殿(写真右)が兵火により炎上焼失した。一般には久秀が焼いたとするものが多いようであるが、これについては別稿(東大寺大仏殿炎上)に少々詳しく述べてあるので参照されたい。 なお、焼け落ちた大仏は、後に順慶の伯父山田道安が私財を投じて修復を成し遂げたと伝えられる。 戦いの明確な決着をまだ見ない翌永禄十一年、中央で動きがあった。二月八日には足利義栄が室町幕府第十四代将軍に就任するが、京都の地を踏めないまま同年九月(十月説あり)に摂津富田普門寺で三十一歳の若さで病歿する。これに前後する形で越前朝倉家にいた義秋が四月十五日に元服して義昭と改名、織田信長を頼って七月十三日に越前を発った。信長は美濃立政寺に彼を迎え、尾張・美濃・伊勢・三河の軍を率いて九月七日に義昭を奉じて岐阜を発し、協力要請を断った六角義賢を撃破しながら九月二十六日に義昭とともに入洛を果たしたのである。 さて、筒井順慶・三好三人衆は久秀の一方の拠点・信貴山城を六月二十九日に落とし、久秀は窮地に立たされる。しかし機に聡い彼はこの信長上洛というチャンスを逃さず、間髪を入れずに信長に通じて九月二十八日に人質を入れ、その麾下に属す意志を表した。さらに十月四日には義昭を通じて改めて信長に拝謁し、大和の支配を認められる。一時奪われた信貴山城も信長の勢力を借り、十月には取り戻した模様である。これについては同年の『多聞院日記』九月二十九日条・十月五日条にそれぞれ 「昨日松少ヨリ人質ニ、広橋殿ノムスメ号祝言京ヘ被上了、尾張守ヘ被遣之了」 「五日、松少昨日上意并織尾ヘ礼在之、和州一国ハ久秀可為進退云々」 とあり、久秀は筒井氏に一歩先んじて大和の支配権を信長から認められたことがわかる。信長は九月二十九日に三好三人衆の拠る山城勝竜寺城・摂津芥川城をあっという間に抜いて義昭とともに芥川城に入り、近江・山城・摂津の寺院に禁制を掲げ、十月二日には同池田城を攻めると、城主池田勝正は人質五人を差し出して降伏した。その二日後に久秀は信長に拝謁したわけだが、この時秘蔵の茶器「九十九茄子」と名刀吉光を献上したと伝えられる。これが気に入ったのか久秀の人物を見込んだのか、信長は佐久間信盛・細川藤孝・和田惟政らに久秀救援を命じ、早くも十月十日には二万と言われる軍勢をもって大和の諸城を攻めさせている。 大和国人衆も義昭のもとへ向かい、中坊飛騨守を中心に無事であり得る御礼を述べる形で信長配下に属すことを求めるが拒否された(『多聞院日記』)。ここに大和一国は、織田信長という大勢力を背景に久秀が支配することとなった。 並松の戦い 信長から大和の支配権を任された松永久秀は、当然力を得て再び筒井順慶らに矛先を向けた。順慶は久秀方の攻勢に筒井城を追われ、東山内(宇陀郡とも)へと退き、久秀は大和国人衆の城を次々と攻略していった。そんな中、久秀と順慶が法隆寺周辺を舞台に激突したとされる「並松の戦い」の記述が一部の記録に見られる。この戦いについては存在自体が疑問視されており、『大和記』では年月が記されておらず、ほぼ同一内容の『陰徳太平記』では永禄十一年十月中旬とされているが、一番詳細な内容の『和州諸将軍傳』では永禄十二年三月のこととしている。この戦いが実在したかどうかは別として、比較的簡潔に書かれている『大和記』における記述を現代語訳して参考までに紹介する。 松永久秀は大和の大半を手にしていた筒井順慶を討つべく人数を集めて法隆寺まで出陣すると、順慶も筒井より二十町西にある栴檀の木村という所まで出陣した。順慶の先陣は島左近・松倉右近両人で、これに続いて国人衆が従った。さて並松という所まで互いに兵を進め、戦いの火蓋が切って落とされた。松永勢の先手が敗れて退くところへ筒井勢の先手の者共が追い討ちをかけたが、深追いしてしまった。その時久秀が事前に法隆寺内に隠し置いた伏兵が一斉に起ち、筒井勢の後ろへ攻め掛かり退路を断った。敗れたと見せて退いていた久秀勢も反転して盛り返したため筒井勢は惨敗を喫し、筒井城へ戻って籠城することも出来ず、そのまま宇陀郡へ落ちていった。 『多聞院日記』によると、実際久秀は信長の墨付きを得るや早くも十月六日には筒井郷へ攻め寄せており、城の間際まで焼き払っている。この際の戦いが上記「並松の戦い」かどうかは不明だが、これは郡山辰巳衆が裏切ったためと言われ、一部の筒井勢力は郡山城に残って固く籠城した模様である。しかし結局順慶は八日に筒井城を奪われて東山内に奔った。 当時は久秀が優勢で大和国人衆の中にも郡山向井・高田殿(当次郎)のように久秀に寝返る動きがあり、順慶は苦しい戦いを余儀なくされる。なお、上記『大和記』では順慶は宇陀へ逃れたとしているが、同郡は永禄十一年九月までに松永方となった秋山右近直國の勢力圏であり、戦いの日時が特定しにくいことを考慮しても少々疑問を感じる。久秀は翌年にかけて次々と大和国人衆の諸城を攻略するが、永禄十二年十二月七日の貝吹山城 こうして久秀と順慶の抗争は続くが、順慶もしぶとく対抗して久秀の膝下に屈すことはなく、じわじわと勢力を挽回していく。 |