筒井氏の名臣「右近左近」として知られる松蔵右近と島左近。しかし島左近はともかく、松蔵右近となるとその人物像はほとんど知られていません。ここでは松蔵右近について少しご紹介します。 |
戦国期の松蔵氏 筒井氏の家臣の中で特に有名な人物といえば、やはり「筒井の三老」と称された島左近・松蔵右近・森志摩守であろう。特に島左近と松蔵右近は「右近左近」と称され、軍政両面で筒井順慶を支えたとされているが、その活躍は確かな記録にはまったく見えない。 つまり、実は両人とも有名な割には未だ素性がよくわかっていないということである。島左近の方は後に石田三成のもとへ移ってから起こった関ヶ原合戦の際の活躍で広く知られているが、松蔵右近となると確実な記録はほとんどなく、『和州諸将軍傳』などのいわゆる軍記物と呼ばれる書物の記述を頼るしか、彼の人物像に触れることは出来ないのが現状である。 この軍記物なる書物は後世に編纂されたもので、先に成立した他の軍記物の記述や代々の言い伝え・地域伝承などをも織り込んでまことしやかに書かれており、内容の信憑性には少なからず疑問が残るものが数多く存在する。確実な記録が残されてない以上、たとえば松蔵右近の人物像に触れるには、一部こういった書物の記述を参照せざるを得ない面もあるわけだが、たとえ言い伝えや地域伝承であっても、一面では真の史実を伝えている場合もあろう。また仮にそれが真実ではなかったとしても、伝え続けてきた人々は真実と信じて伝えてきたわけで、これもまた一面では歴史そのものであろう。左の軍旗は『関ヶ原合戦図屏風』(井伊家蔵/木俣家蔵)に見える、右近の子豊後守重政のものである。 現時点での松蔵右近は、こういった伝説的な世界に存在する武将のうちの一人である。 さて、『大和志料』の横田塁の項には、 |
と見え、ここでは「右近丞勝重」とある通り、右近の名は勝重とされているわけだが、『寛政重修諸家譜』には重信(権左衛門・右近・右近大夫)とあり、どちらが本当かよくわからない。さらに『大和志料』では勝重は天正十四(1586)年三月七日に享年六十歳にて名張で没したとされ、もしこれが正しければ右近は大永七(1527)年の生まれということになるが、一方『寛政重修諸家譜』では重信は文禄二(1593)年七月七日に享年五十六歳で没したとされ、これだと天文七(1538)年の生まれということになる。つまり両者は別人とも取れる記録が残されているのである。 「松蔵」は「松倉」とも書くが、ここでは天文二十二年に弥七郎政秀が春日社に寄進した石灯籠に「松蔵」とあることから(画像右)、これをもって表記させていただくことにする。 松蔵氏は大和横田郷(現大和郡山市横田町)の領主で、家紋は九曜紋と伝えられている。 松蔵氏で戦国期に実在した人物としては式部・弥七郎政秀・権左衛門秀政・権介・弥八郎・弥二郎といった名前が記録に見えるが、松蔵氏には少なくとも二系統の家が存在したのではないかと思われる。一つは代々右近を名乗る系統、もう一つは権左衛門・権介の系統である。 式部は天文十八(1549)年に死去している記述が『多聞院日記』に見え、弥七郎政秀については右の画像の通り同二十二(1553)年正月朔日(元旦)に春日大社に寄進した石灯籠が現存している。もしこれらの人物が「右近左近」の右近なら、政秀は系図上でも勝重の父とされており、年代的に見て左近の方は先代の左近であろうか。こうなってくると、昨年九月に平群町の安養寺で発見された天文十八年九月十五日付「嶋佐近頭内儀」の位牌の存在が大きい。当時「嶋佐近頭」なる人物が実在していたからである。 不詳の人・松蔵右近 権左衛門秀政と権介については、『奈良県史』では同日記の他の記述などから式部の子が権介であろうとしており、加えて『尋憲記』に「松倉権助秀政」と見えることから、権左衛門秀政と権介は同一人物と見て良いかと思われる。となると彼は天正十一(1583)年十二月に死去しているので、残るのは弥八郎と弥二郎である。 『多聞院日記』天正十一年五月十日条には 「一 今暁伊賀筒井陳ヘ夜討アリ、散〃ニ手負數多、(中略) 嶋左近・松蔵弥八郎・同弥二郎・中村九郎三郎以下悉手負了」 とあり、どうやら弥八郎と弥二郎は兄弟のようである。ただ島左近の名は見えるのに松蔵右近とは書かれていない。 権介の死去した直後の天正十一年十二月二十九日、弥八郎と弥二郎は羽柴秀吉によって中坊飛騨(秀祐か)・森猪介(玄良)らとともに大名に取り立てられた。弥八郎は畑(現山辺郡)で五百石だったのが、これにより越智郷(現高取町)に移って三千石を拝領し、大坂へ礼に赴いたことが記録されている。 ところで同日記天正十一年十一月四日条に「弥二郎頼秀」の文言が、また『蓮成院記録』の裏文書鈔に「松蔵弥次郎秀成」の書状が見え、後者は年次不詳ながら内容が順慶の塔婆に関するものなので、時期的に見てこれは弥二郎のことではないかと考えられるが、名前が一致しない。さらに『大和志料』には横田村に「松蔵頼秀」の墓がある旨が記されていて混乱する。ただ『多聞院日記』天正十三年(1585)正月十三日条に「松蔵右近・同弥二郎」と見えるので、弥二郎は右近ではないことだけは確かなようである。 ということは先述した勝重または重信とは、弥八郎のことなのであろうか。『多聞院日記』天正十二年七月十日条には 「當國衆ハ松蔵弥八郎大将ニテ、惣勢今日立ト云々、順慶ハ煩ニテ在京了」 と見える。この内容自体は誤聞だったようで、「ウソ也、即陳(陣)衆引了」と書き足されているが、松蔵弥八郎なる人物が当時病中だった順慶の名代として大和衆を率いる大将を務めてもおかしくない立場にあったわけである。 順慶は天正十二年八月十一日に病没し、十月十六日には葬礼が執り行われているが、その列の中に「松蔵右近」が見え、『多聞院日記』の同じ日の記録にも 「於大佛穀屋昨日ヨリ千部経在之、松蔵右近沙汰之云々」 と、初めて信用できる史料に「松蔵右近」という記述が見える。島左近も葬列に参加しており、ここにようやく「右近左近」が揃うわけだが、順慶の没後のことである。 翌年の閏八月、松蔵氏は順慶の養子で跡継ぎとなった定次とともに伊賀へ移り、簗瀬(名張)に居住するが、天正十七(1589)年の『多聞院日記』に次のような記述が見える。 「伊賀ヨリ藤松來、松蔵右近ノ内金七郎ニ奉公ト申、」 (天正十七年正月十六日条) 「藤松伊賀ヘ歸ル間、又六ヘヘウタンニ酒今一升遣了、」 (同正月廿日条) 「松蔵右近煩大事云々、」 (同年六月六日条) 「藤松」というのは松蔵氏の家来に奉公する人物のようだが、天正十七年六月の時点で「松蔵右近」がまだ伊賀に存在していることがわかる。つまり、もし勝重が右近なら、先に述べた『大和志料』の天正十四年三月七日に右近勝重が没したという記録はおかしい。 度々名の挙がる『和州諸将軍傳』という書物は宝永四(1707)年五月の成立で、内容には疑問のある箇所が多いのだが、右近左近の活躍が随所に見られる。ただ、この書においても右近は勝重とあり、天正十四年三月七日に没したとされている。さらに勝重の没した翌年に子の重政・重宗兄弟が伊賀名張を去って南都成身院に遊居したとあり、松蔵氏自体が伊賀からいなくなっている。これはつじつまが合わない。 一方、『伊水温故』という書物の「簗瀬ノ城」の項には 「慶長ノ始羽柴伊賀守藤原定次ノ与力松倉豊後守重政八千石ヲ領シ當城ヲ筑テ居住ス 定次没落以後ハ松倉和州五条ヲ守護シ家康公ノ昵近トナル」 とあり、慶長年間初頭には右近の子・豊後守重政が八千石を領して簗瀬城主となっているが、おそらくこの時点では右近は世を去っていたのであろう。 弥八郎が勝重だとすると、秀吉から大名に取り立てられるまでは山辺郡の畑で五百石だったわけで、筒井の三老と称された右近の所領としては少なすぎる(『和州国民郷士記』等でも七千石を領したとされる)。それに、何より勝重は天正十四年三月に亡くなっており、天正十七年の時点で『多聞院日記』に見える「松蔵右近」は勝重ではない。 あくまで推測の域を出ないが、これらを総合して考えると、『多聞院日記』に見える右近・右近大夫とは弥八郎のことであり、それは重信のことを指すのではないかと一応考えられる。 ちなみに『多聞院日記』には永禄年間〜天正五年初頭にかけて「松右」なる記述が多く見えるが、これは松永久秀の子・右衛門佐久通を指しており、残念ながら松蔵右近のことではない。
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