ここでは筒井氏に関して新たに発見・判明したことを臨時稿の形でご紹介します。なお、この内容は後に再編集され別項に移行します。 |
はじめに 大和郡山市教育委員会では筒井城跡(大和郡山市筒井町字シロ)の発掘調査を毎年継続して行っています。今年の調査は1月5日から2月28日まで行いました。筒井城跡の発掘調査としては8回目となります。 今回調査した場所は下に示した通りですが、狭い区域を、さらに土置き場の確保のため半分ずつ発掘しました。また、今回は堀跡などの深い遺構が主だったので、危険防止のために例年開催していた現地説明会は行いませんでした。このレポートは、その代わりにお届けします。 今回調査した場所の地図 今回の調査でわかったこと 今回の調査場所は、南北方向の堀跡と東西方向の堀跡に挟まれた部分です。調査の結果、図に示したような新しい段階の南北堀と古い段階の南北堀、東西方向の堀が見つかりました。 順を追って説明すると、15世紀の前半に幅8m、深さ2mほどの堀が掘られます。この15世紀前半は、ちょうど文献記録に筒井城がはじめて登場する時期でもあります。本格的な城郭としての筒井城は、このころ造られたと考えて良いでしょう。 次いで16世紀後半ころ、この古い堀は埋められ、幅16mの新しい堀に造り替えられます。そして、東西方向の堀と南北方向の堀の間には、土塁(土の壁)が新たに造られたものと思われます。 では、どうしてこのような堀の大規模化と土塁の築造がなされたのでしょうか? 以前、今回の調査地の北で第5次調査が行われた時、堀の内部から鉄砲玉が出土し、注目を集めました。実は、今回の調査でも鉄砲玉が2個出土しています。 これは、筒井城を巡る争いに鉄砲が使われたことを意味します。永禄2年(1559)、鉄砲を使って筒井城を攻めたのは、松永久秀という京都の武将でした。そしてこの最新兵器によって、筒井城はわずか1日で落城します。 今回の調査で判明した「堀の拡張」と「土塁の築造」は、おそらく鉄砲の脅威に備えたものと考えられます。もはや古いタイプの城となりつつあった筒井城は、こうした工夫で新しい時代を乗り切ろうとしたのでしょう。しかし、鉄砲の威力は彼らの想像をはるかに超えたものだったようです。 ちょうど筒井城が落城した頃から、戦国大名の間では鉄砲が次々と採用されるようになります。それは当の筒井氏に関しても同様で、筒井順慶が後に織田信長の家臣になった時期には、筒井で鉄砲の生産を行っていたとする記録もあります。そうした潮流のなか、筒井城はもはや時代遅れの城になりつつあったのです。今回の調査は、そのことを非常に強く印象付けるものになりました。 おわりに 以上のように、ほんのわずかな面積だけでも、発掘調査では様々なことがわかります。筒井城跡は日本でも有数の規模を誇る戦国時代の平地式城館です。今後も、計画的な発掘調査を進めてゆけば、戦国時代の城の構造や、城をめぐる攻防の様子などが具体的に明らかになってゆくことでしょう。 (当稿は大和郡山市教育委員会の地元向け回覧文書を、許可を得て画像を追加し作成したものです) 2005年3月10日記 文責:Masa 画像を含めた当稿の無断転載および引用を禁じます。 |