この稿では中近世の興福寺と、筒井氏の出自等についてご紹介します。 |
中近世の興福寺と大和 中世の大和には守護は置かれず、代わって興福寺が守護的な立場にあった。しかし五十年間にわたって繰り広げられた南北朝争乱の余波を受け、観応二(正平六・1351)年に一条院・大乗院両門跡の抗争が起き、以後その支配力は下降の一途をたどる。最盛期の興福寺は大和に留まらず伊賀・山城・近江など各地に多くの庄園領を有してその在地勢力を束ねていたが、やがて有力土豪らは次々と独立していった。こうして興福寺の勢力が次第に衰退していく反面、大和独特の呼称である「衆徒(しゅと)」「国民」と呼ばれる国人衆が武士として成長していくわけである。 「衆徒」とは興福寺が大和国内における庄官・名主などの有力者を僧衆に準じて認めたもの、すなわち興福寺に属す僧体をした武士のことで、江戸期以降には「僧兵」と表現され、筒井氏・古市氏などがその代表格として知られる。また、鎌倉時代以降、衆徒の中から二十人を選んで四年間興福寺に在勤させた面々を、官符(官務)衆徒または衆中とも呼ぶ。 「国民」とは同国内における春日社領庄園内の庄官や有力名主を白衣神人(じにん)として任じたもので、春日社末社の神主職にあった。衆徒が僧体であるのに対して国民は俗体の武士、すなわち純然たる武士であったが、こちらは越智氏・十市氏などが代表格である。元々衆徒は国民より優位に置かれていたが、興福寺の衰退につれて自然とその区別はなくなり、ともに大和武士として成長していった。 そんな中で筒井・越智・古市・箸尾・十市氏らの衆徒や国民が台頭し、やがて河内の畠山義就・政長両派による内紛の影響もあって大和国人衆は筒井・越智両氏を中核とする二大党に分かれ、背景勢力の思惑も絡んだ抗争が長期に渡って繰り返された。 大和国人衆は明徳三(1392)年に南北両朝の合一をみてもなお、以前の確執を引きずる形で争いを続けていた。位置的に見て大和国中(くんなか)北部の筒井氏らは北朝、南部の越智氏らは南朝の影響を受けていたのは頷けるが、中央部に在地する国人衆の立場は微妙であった。主要国人として数えられ、概ね筒井党であった箸尾氏や十市氏でさえ時には越智党に加担したり内部分裂を起こしたりしており、古市氏に至っては国人一揆にも参加せず、赤沢ら京衆の侵入に加担するという複雑な動きを見せるのである。 筒井氏と筒井党 筒井氏は順慶の代に織田信長の麾下となって大和一国を支配することになるが、意外なことにその出自は定かではない。筒井氏の出自については以下の三説がある。 1.近衛家の出とするもの。神護景雲二(768)年十二月九日、河内枚岡から春日に遷宮の際に供御した藤原四家の一つが筒井氏とする。始祖順武は添下郡筒井の庄に住して筒井を名乗り、以後四十二代続いて順快に及んだという。 2.菅原姓であるとするもの。これは筒井氏の家紋が「梅鉢」であることをその理由とする。 3.大神(おおみわ)姓とするもの。『坊目遺考』所収の「大倭武士春日大宿所願主人勤番次第」を根拠とする。『大和志料』の著者は筒井の本姓は大神で、のち興福寺衆徒となるに及んで藤原氏を名乗ったとする。 ただ、筒井氏において『春日社文書』『大乗院寺社雑事記』等の信憑性の高い記録では筒井順覚が初見のようであり、それ以前の筒井氏の系譜は定かではない。 一方『大和郡山市史』では筒井氏は森屋神社を中心とする森屋党の中核・森屋筒井の出ではないかとする説を紹介しているので、ざっと紹介する。中世に活動した森屋党は森屋神社(現奈良県磯城郡田原本町蔵堂・村屋神社)を中心として大神姓の一族が結束した一党で、同神社の祭神は大神神社(三輪明神)の姫神である。 森屋筒井氏は大和永享の乱で没落するが、古くこの家系より興福寺に出仕して衆徒となるに及び、その流れから現大和郡山市筒井町を本貫とする筒井氏が起こったのではないかとするものである。つまり、上記3の説に該当する。 南北朝期の筒井氏は北朝方であり、以後その地縁的な繋がりから大和国中北部の国人たちを中心に戌亥脇(いぬいわき)党(乾党)を結成、国中南部の高市郡を本拠とする南朝方であった越智氏(散在党)らと抗争を繰り広げる。戦国期の主な大和国人衆としては筒井・越智・箸尾・十市・古市氏らが挙げられるが、概ね筒井・箸尾・十市氏は近い関係にあり、越智・古市氏は反筒井党と見て良さそうである。ただし国人衆の内部分裂も見られることや、箸尾氏が越智党に属していた時期もあるなど離合集散が複雑かつ頻繁に繰り返されており、あっさり断定できるわけではない。 なお筒井党のメンバーとしては明応六(1497)年の筒井党復活〜同八年の赤沢朝経侵入(筒井党没落)の際、成身院・今市新・丹後庄・小南・嶋・香山・知足院・北院・萩別所・辻子・小林・大安寺向・岸田・高井・興隆寺・笠・箸尾内衆・姿(菅田)衆・中坊・楢原(ならばら)・布施・秋篠・超昇寺・白土・三乃庄・十市・八田・出雲両下司・辰市南・長谷川党之内・慈恩寺・大仏供(だいぶく)・豊田・番条といった面々が記録に見える(『大乗院寺社雑事記』)。 |