戦国を生きた男たち
《 武将編 あ: 愛洲兵部少輔〜安藤守就

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


愛洲兵部少輔(あいす ひょうぶのしょう) 生没年不詳

実名は不詳、小田原北条氏の家臣。船大将として浦賀水軍を統轄した。永禄十年九月、安房里見氏による三浦三崎侵攻の際、同地の水軍の将梶原景宗らと菊名浦でこれを迎撃、戦功をあげた。玉縄衆の一人で、三浦佐原・御蔵出にて二百十二貫余の知行地を有した。

青景隆著(あおかげ たかあきら)  ? 〜1556

元は長門の国人で大内家(義隆)の家臣となり右京進、越後守を称す。杉重矩と一時対立するがのちに和解、また日頃仲の悪かった相良武任をライバルの陶晴賢に讒言したことにより、晴賢の謀反の一因を作ったという。弘治二(1556)年戦死と伝える。

青木一重(あおき かずしげ)  1551〜1628

重直の嫡子で通称忠助、所右衛門のち従五位下民部少輔、摂津麻田藩祖。はじめ今川氏真に仕えて新阪の戦いで首級を挙げ、のち徳川家康のもとで姉川合戦で活躍、一説に朝倉氏の勇将真柄直隆を討ち取ったと伝える。その後丹羽長秀・豊臣秀吉に仕え一万石を領した。大阪の役の際には七手組の一隊長を務め活躍するが、和議の使として駿府からの帰途に京都で拘禁された。戦後家康に許されて再び徳川家臣に戻り、摂津豊島郡麻田で一万石(格式は十万石)を領した。

青木一矩(あおき かずのり)   ? 〜1600

豊臣秀吉の家臣で通称勘七、紀伊守を称す。はじめ豊臣秀長に仕え、のち秀吉の直臣となり慶長二年には豊臣姓を賜った。越前北ノ荘城主のとき関ヶ原の戦いが起き西軍に属す。戦後前田利長を通じて家康に詫びを入れたが程なく病歿、領地は没収された。

青木重直(あおき しげなお) 1529〜1613

美濃安八郡青木郷の土豪で通称加賀右衛門尉、武蔵守。のち入道して浄憲と号し、法印に叙せられ刑部卿を称した。はじめ美濃守護土岐頼芸の被官で、後に斉藤道三に仕える。斎藤氏没落後は織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、秀吉の下ではお咄衆を務めた。知行所は摂津豊島郡(現豊中市・池田市)内。

青木可直(あおき よしなお) 1561〜1622

重直の四男で一重の弟。通称次郎左衛門、名は初め一直。はじめ美濃で池田輝政に仕え、関ヶ原合戦ののち輝政移封とともに姫路に移る。慶長十五年より徳川家康の直臣となり、美濃にて三千石を領した。大坂冬の陣では永井直勝の与力として兄一重と戦う。のちに一重より父重直の遺領を分知され、五千石の旗本となった。

青地茂綱(あおぢ しげつな)   ? 〜1570

蒲生定秀の二男で賢秀の弟、氏郷の叔父にあたる。近江栗太郡青地郷の土豪青地長綱の養子となり、駿河守を称す。賢秀とともに織田信長に臣従、伊勢攻めなどに従軍。1570年近江宇佐山城を浅井・朝倉連合軍に攻められた際、守将の森可成とともに奮戦したが討死した。

青地元珍(あおぢ もとよし)   ? 〜1633

茂綱の子で名は光珍とも。通称内匠助、四郎左衛門。元織田信長の臣で、元亀元年十月、父茂綱の戦死により家督を嗣ぎ所領を安堵される。以後佐久間信盛の与力となり石山本願寺攻めなどに従軍、信盛の追放後は信長直属武将として働く。本能寺の変後は織田信孝に仕えるが、信孝自刃後は蒲生家に身を寄せ、後に前田利長に仕えた。

赤池長任(あかいけ ながとう)  生没年不詳

肥後相良氏の家臣で伊豆守を称す。肥後球磨郡赤池城主。指揮下に丸目石見・岡本河内ら勇将を擁し、島津家との筈ヶ尾合戦や大口初栗合戦などで勇戦活躍、互角に渡り合った。特に初栗合戦では猛将島津義弘の肝を冷やさせたという。

赤井照景(あかい てるかげ)  生没年不詳

照康の子で通称は又六、上野館林城主。北条氏康・氏政の傘下に属し、長尾景虎の関東出兵時には敵対したが長尾景長・由良成繁・富岡重朝らに攻められ開城、武蔵忍へ逃れた。

赤井直正(あかい なおまさ)  1529〜1578

丹波氷上郡後家(ごや)城を本拠に奥丹波三郡を領した土豪赤井時家の二男で、幼名才丸、通称は悪右衛門。室は波多野元秀の娘(兄家清室の再嫁)のち関白近衛前久の妹。初め荻野氏を称し十三歳で朝日城主となるが、後に叔父の荻野伊予守秋清を刺殺し黒井城主に。智謀にも優れた猛将で「丹波の赤鬼」と怖れられ、縁戚の八上城主波多野秀治らと連繋して再三明智光秀の侵攻をくい止めた。亡くなる直前、降伏勧告に訪れた敵将脇坂安治の堂々たる態度が気に入り、代々の家宝である珍獣・貂(てん)の毛皮(槍鞘)を安治に譲ったと伝えられ、安治はこれを家宝とした逸話が残る。天正六年三月、面疔を病み没した。享年五十歳。法名「抽戦院殿実山常休大居士」、墓は高野山奥の院にある。

赤川元保(あかがわ もとやす)   ? 〜1567

安芸毛利氏譜代家臣房信の四男で、天文19年以来毛利家五奉行の一人を務める。しかし他の奉行らと対立した上に専横ぶりが目立ち、永禄6年隆元の急死時に和地誠春と共謀して毒殺したと疑われて左遷され、永禄10年に自決させられた。

赤座直保(あかざ なおやす)    ? 〜1606

豊臣秀吉の家臣。通称は久兵衛、備後守を称し越前今庄二万石を領した。小早川秀秋、次いで堀尾吉晴の寄騎を務める。関ヶ原でははじめ西軍の大谷吉隆(吉継)の配下に属すが、決戦時に東軍に寝返った。戦後失領し前田利長に仕えたが、増水中の越中大門川で水馬して溺死したという。

赤沢朝経(あかざわ ともつね)   ? 〜1507

沢蔵軒宗益。清和源氏小笠原氏の末裔で、初め常盤十郎朝経と名乗る(『応仁後記』)。近畿管領細川政元の重臣となり、特にその軍事面で活躍。三好氏と結んで河内高屋城の畠山義英を大和に追い払った。永正四(1507)年、武田元信とともに丹後守護一色義有攻めに三百余騎を率いて出陣するが、阿弥陀峰城を攻略中に政元が暗殺されるという事件が起き、自軍が総崩れとなる中を退却しようとしたが果たせず、敵に囲まれ自害した。

明石守重(あかし もりしげ)  生没年不詳

播磨浦上氏の臣・景親の子で妻は宇喜多直家の娘。掃部助、名(号)は全登(「てるずみ」「たけのり」「なりとよ」等とも)。宇喜多家の家老でジョアンの洗礼名を持つ熱心なキリシタンとして知られ、十字架の軍旗を用いたという。関ヶ原の際には宇喜多勢の先鋒を務め奮闘するが、西軍が敗れたため戦場を離脱し備中足守に潜伏した。大坂の陣の際には豊臣方に加わり司令官として活躍したが、大阪落城後の「明石狩り」にもかかわらず、その後の消息は不明。

秋田実季(あきた さねすえ)  1576〜1659

出羽檜山城主安東愛季(よしすえ)の二男で、檜山城のち湊城主。通称下国安東太郎、秋田城介を称す。天正十五年に従兄の道季が戸沢氏の後押しにより挙兵し争乱となるなど戸沢・小野寺・南部氏らとの局地戦に明け暮れたが、由利衆の援助もありこれを制圧し天正十九年には豊臣秀吉傘下の大名として公認された。関ヶ原の際には東軍に属すが病と称して動かず、戦後常陸宍戸五万石に移された。寛永七年に故あって伊勢朝熊に蟄居、凍蚓(とういん)と号した。万治二年七月二十九日、行年八十四歳をもって没した。

秋元長朝(あきもと ながとも) 1546〜1628

武蔵深谷城主上杉憲盛の臣。景朝(元景)の子で通称孫三郎・孫四郎・忠四郎、上野介・越中守を称す。母は関東管領上杉憲政の養女。秀吉の小田原攻めに際しては小田原城に籠もった憲盛に代わって深谷城を守るが開城降伏、のちに井伊直政の仲介で徳川家康に仕え、慶長六年に上野総社一万石の城主となった。

秋山信友(あきやま のぶとも) 1530?〜1575

伯耆守、武田氏譜代の重臣で弘治二年には高遠城代・伊那郡代を務める。信玄西上時に一旦織田領の美濃岩村城を落とし、信長の叔母を妻として同城主となる。しかし天正三年の長篠合戦での勝頼敗北後、ほどなく織田勢に包囲され十二月に落城。妻と共に長良川畔で逆さ磔の刑に処されたと伝えられる。

明智秀満(あけち ひでみつ)    ? 〜1582

光秀の女婿(妻は細川ガラシャの姉)で元は三宅弥平次といい、『明智軍記』では左馬助光春の名で見えるが、正しくは明智弥平次秀満。一般に光秀の山崎合戦敗戦時に琵琶湖を単騎で渡った「湖水渡り」の逸話で有名。直後に近江坂本城を堀久太郎秀政の軍に囲まれ、家宝などを秀政を通じて秀吉の元に届けた後に自害したという。

明智光秀(あけち みつひで)  1528〜1582

織田信長の家臣で通称十兵衛、日向守を称す。美濃土岐氏の出身とされる信長幕下随一の智将で、惟任(これとう)姓を賜る。天正十年、謀反を起こし本能寺に信長、二条城に信忠を攻め滅ぼすが、報を聞き急遽中国から引き返した羽柴秀吉に京・山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり落命。

明智光安(あけち みつやす)    ? 〜1556

美濃斎藤氏の家臣で明智城主。光継の三男で兵庫頭を称す。長兄光綱(光隆とも)の子光秀が幼少のため本宗家を継いだ。道三と義龍の対立時には道三に応じるが、弘治二年の長良川合戦にて道三が敗死したため明智城に退却して籠城。しかし程なく義龍に城を攻められて自刃した。

浅井亮政(あざい すけまさ)    ? 〜1542

浅井は「あざい」と読むのが正しい。近江浅井郡小谷城を本拠とする国人で、京極氏の下で勢力を徐々に拡張し、越前の朝倉孝景や美濃の斎藤道三らと結び江北の覇者となる。近江守護の六角定頼とは終始近江の覇権を争って戦った。

浅井長政(あざい ながまさ)  1545〜1573

久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。信長の妹・お市の方を妻に貰い受け織田家との友好を深めるが、信長の約束違反とも言える朝倉攻めに際には情誼を優先して朝倉方に加担、信長の背後から攻めかかった。勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも三年後に信長の再攻撃を受け、三人の娘を城外に落とした後力尽きて自害。

浅井久政(あざい ひさまさ)    ? 〜1573

亮政の長子で下野守を称した北近江・小谷城主。父亮政の死により1542年に家督を嗣ぐが、六角氏や京極氏の勢力に挟まれて苦況に陥る。1560年に子の長政や家臣たちと家の存続方向をめぐって対立、家督を長政に譲って隠居した。内政的には領国支配の基礎を確立させるなど、業績を残している。

朝倉景鏡(あさくら かげあきら)  ? 〜1574

朝倉家重臣。主君義景を裏切り自領の大野郡におびき寄せて自害させ信長に随身したが、さして厚遇はされなかった。後に一向一揆に襲われて主従三騎になるまで討ち減らされながらも奮戦、そのまま敵陣に斬り込んで壮絶な討死を遂げたという。

朝倉景連(あさくら かげつら)   ? 〜1570

景伝の子。朝倉家同名衆の一人で、代々朝倉家一乗谷奉行を務めた重臣。主に外交方面で活躍、1561年に義景が大窪浜で大々的に犬追物を催したときには、主君と間違えられるほど美々しく着飾って参加したという。

朝倉孝景(あさくら たかかげ) 1493〜1546

越前国主で朝倉家4代。越前国の統一を果たし、分国法「朝倉敏景十七箇条(「朝倉孝景条々」ともいう)」を制定するなど政治にも優れた功績を残した、文武両道に秀でた名君。

朝倉教景(あさくら のりかげ) 1477〜1555

入道名宗滴沙弥、越前朝倉氏初代英林孝景の子。当主の孝景を補佐して加賀一向一揆の鎮圧と平定に尽力、敦賀郡司を務めた。軍奉行一筋に生き、一向一揆との合戦のたびに数限りない戦功を挙げた朝倉家中随一の名将。

朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533〜1573

孝景の子で朝倉家5代。さして暗君ではなかったが名族意識が強く、信長に対抗し姉川合戦で大敗。信長の朝倉討伐の際には重臣の景鏡にも裏切られて一乗谷を脱出、越前大野・賢松寺に追い込まれて無念の自害。

浅野忠長(あさの ただなが)  1592〜1660

甲斐守。備後三原浅野藩二代当主。忠吉の孫(二女の子)だったが祖父忠吉に継嗣が無かったため養子となり家を嗣いだ。大坂の陣の際には忠吉とともに従軍。内政面では地元で頼兼新開・横山新開を拓くなど多くの事業に携わって功績を挙げ、加えて三原で初の関船「八幡丸」を建造した。万治三年、広島で没した。

浅野忠吉(あさの ただよし)  1546〜1621

長忠の子で右近大夫、備後三原城主。初め織田信長に仕える。浅野長政の従兄弟にあたり、長政とその子幸長に仕えて家老を務め、幸長が紀伊和歌山に封ぜられた際には新宮で二万八千石余を領した。大坂の陣の際には南下する大坂方との樫井の戦いで奮戦、幸長の後嗣長晟が安芸広島へ移ると備後三原三万石の主となり、三原浅野藩初代となった。

浅野長政(あさの ながまさ)  1547〜1611

安井重継の長男で浅野長勝の養子となる。豊臣家五奉行の筆頭で正室は秀吉夫人ねねの妹。秀吉の信頼も厚く、九戸政実の乱や朝鮮の役の際には軍監を務めた。家康と仲が良く関ヶ原では東軍に属し、後に家康の囲碁相手として重用されたという。

浅野幸長(あさの よしなが)  1576〜1613

左京太夫。長政の長男で、紀伊国和歌山城主。朝鮮の役後石田三成らの吏寮と対立した「七人衆」の一人。鉄砲術に優れていたと伝えられるが、大坂の陣直前に謎の急死。前後して加藤清正も病死したため徳川方の手による毒殺説も囁かれた。

朝比奈信置(あさひな のぶおき) 1528〜1582

丹波守元長の子で通称藤三郎、右兵衛太夫・駿河守を称す。名は政貞、氏秀とも。駿河用宗(持舟)城主で、はじめ今川氏真に仕えたが、武田信玄の駿河侵攻の際に武田家に随身、山県昌景の同心となり百五十騎の侍大将となる。庵原山城将を務めたが、天正十年の信長・家康の侵攻に抗せず開城、庵原館で子の信重とともに自刃した。

朝比奈泰朝(あさひな やすとも) 生没年不詳

今川氏の重臣。備中守泰能の子で通称左京亮、備中守を称す。遠江掛川城主で、永禄十一年に今川氏真が、武田信玄に駿河を逐われた際にこれを迎え入れ、五ヶ月にわたって防戦するが結局は開城。後に氏真に従って伊豆戸倉城から相模小田原城へと移るが、それ以後の消息は不明。

足利晴氏(あしかが はるうじ) 1508〜1560

古河公方足利高基の子で幼名満千王丸、元服時に将軍義晴の偏諱をもって晴氏を名乗る。国府台の戦いで対立していた小弓公方足利義明を滅ぼすが、河越の戦いで敗れ公方の座を子の義氏に譲る。後二度北条氏に対して挙兵するが何れも失敗、栗橋城に幽閉されたまま世を去った。

足利藤氏(あしかが ふじうじ)   ? 〜1566

古河公方足利晴氏の長子で幼名幸千代王丸、元服時に将軍義藤(後に義輝と改名)の偏諱をもって藤氏を名乗る。北条氏に古河城を追われ一旦安房の里見氏を頼るが、上杉謙信の協力で古河城に戻る。しかし程なく北条氏の攻勢が強まり城を脱出、再び里見氏を頼ったという。

足利義昭(あしかが よしあき) 1537〜1597 

室町幕府第12代将軍義晴の子で、第15代将軍。第13代将軍義輝の弟。兄義輝暗殺時には出家の身であったが細川藤孝らの手引きで還俗し、信長に担がれて将軍位に就く。武力を持たない割に陰謀癖があり、やがて信長と対立して追放され毛利領備後鞆の浦に走り、これによって室町幕府は終焉を迎えた。晩年は昌山と称し、秀吉の御伽衆として仕え秀吉傘下の一武将として世を終えた。

足利義輝(あしかが よしてる) 1536〜1565

室町幕府第12代将軍義晴の子で、第13代将軍。上泉信綱に剣を学び「剣豪将軍」として有名だったが、当時畿内を牛耳っていた三好氏と対立、三好長慶の家臣・松永久秀らに御所を急襲され、後まで語り継がれるほどの奮戦もむなしく大勢によってたかって討ち取られた。

足利義晴(あしかが よしはる) 1511〜1550

室町幕府第11代将軍義澄の子で、第12代将軍。亀王丸と称した幼時は播磨白旗城の赤松義村のもとにいたが、大永元(1521)年に父義澄の敵であった管領細川高国に迎えられて将軍位に就いた。しかし細川晴元と三好元長らの抗争に巻き込まれ、元長に追われて近江へ脱出。一旦帰洛するも再び晴元と対立して近江坂本へ逃れ、そのまま常在寺で歿した。

鰺坂長実(あじさか ながざね) 生没年不詳

備中守。上杉謙信の家臣で越中新庄城主。越中一向一揆が椎名康胤と謀って蜂起した際には援軍の直江景綱とこれを討伐、手取川の合戦で織田勢を撃破した後に七尾城の守備を命じられる。御館の乱の際には景勝側について活躍した。

蘆名盛氏(あしな もりうじ)  1521〜1580

盛舜の子で従五位下修理大夫・大膳大夫を称す。蘆名氏16代当主で会津黒川城主。奥州の諸豪族を傘下に組み入れ、佐竹義重や上杉謙信らとも戦い蘆名氏全盛期を作った。軍政両面に優れた名将だが、経済基盤の引き締めのため徳政令を多発したこともあり、領国の治政には相当苦労したと伝えられる。永禄四年に隠居し止々斎(竹岩)と号したが、後を嗣いだ盛興が病没したため再び政務を執った。天正八年六月十七日没、行年六十歳。

蘆名盛重(あしな もりしげ)  1576〜1631

陸奥会津黒川城主。佐竹義重の二男で初め平四郎、後結城義親の養子となり義広と称す。天正十四年に蘆名氏20代当主として迎えられ盛重と改名するが、同十七年に摺上原で伊達政宗に大敗し、実家に逃げ帰る。翌年秀吉から常陸江戸崎四万五千石を与えられるも関ヶ原不参により失領、兄義宣とともに秋田へ赴いた。寛永八年六月に同地で歿す。享年五十六歳。

阿蘇惟将(あそ これまさ)     ? 〜1583

九州・阿蘇大宮司。大友・龍造寺・島津の三大勢力に囲まれていたため、日向の甲斐宗運の協力を得てもっぱら外交に奔走し、圧迫されつつあった龍造寺氏と結び領国を維持した。

安宅冬康(あたぎ ふゆやす)    ? 〜1564

三好長慶の弟で淡路島炬口(たけのくち)城主。三好(淡路)水軍を率いて活躍したが、松永久秀の謀略により長慶から謀反の疑いをかけられて呼び出され、飯盛城で謀殺された。

阿閉貞征(あつじ さだゆき)    ? 〜1582

元は浅井長政の家臣で近江山本山城主。主家滅亡後に信長の傘下に入ったが、本能寺の変の後明智光秀方に加担したため秀吉方に攻められて殺された。

跡部勝資(あとべ かつすけ)    ? 〜1582

甲斐武田家の譜代家老。跡部氏は甲斐守護代を務めたこともある名家で、信玄と勝頼2代に仕えた。武田氏滅亡時に織田方と戦い信州諏訪にて討死。

穴山信君(あなやま のぶきみ) 1541〜1582

甲斐河内の国人・信友の子で通称彦六郎、天正八年に梅雪斎不白と号す。母が武田信玄の異母姉で、信玄の甥にあたる駿河江尻城主。信玄の没後は勝頼を見限り家康に降伏、信長から甲斐河内の本領のみ安堵された。本能寺の変時に家康とともに堺にいたが、知らせを聞き国元へ戻る際に家康と同行せず単独帰国しようとしたため、帰路の途中山城木津川の渡し付近で一揆に襲われて落命した。同地飯岡に墓がある。本墓は清水の霊泉寺。

姉小路自綱(あねがこうじ よりつな) 1540〜1587

飛騨守護三木良頼の子で、飛騨高山城主。姓は三木、名は光頼・頼綱とも言い、大和守・左衛門佐・侍従に任ぜられる。妻は斎藤道三の娘。本能寺の変後佐々成政と共に秀吉に抗すが、金森長近に攻められ降伏。子の秀綱は松倉城からの敗走中に大野川村で領民に殺害され、ここに三木氏は断絶した。

安倍元真(あべ もとざね)  1513〜1587

はじめ今川氏の臣。刑部大夫信真の子で大蔵尉を称す。駿河城将を務めるが、武田信玄の侵攻の前に支えきれず、本領の駿河安倍郡井川郷に退く。後に徳川家康に属し、天正五年以降、主に武田氏との戦いで活躍。遠江伯耆塚城将を務めた。

甘糟景継(あまかす かげつぐ) 1550〜1611

備後守。上杉謙信・景勝の家臣。越後上田長尾家譜代の臣登坂加賀守清高の長子で、天正五年に上杉謙信の命で甘糟家を嗣ぎ、はじめ藤右衛門清長と称した。のち上杉景勝の一字を賜り景継と改める。剛勇無双と伝えられ、護摩堂・五泉・庄内酒田城主を経て白石城代となり、二万石を領した。

甘糟長重(あまかす ながしげ)  ? 〜1604

近江守。名は景持(かげもち)とも言い、この名で広く知られている。上杉謙信の重臣で桝形城主。謙信の信頼も厚く、その部隊は高い戦闘力を持ち、柿崎景家とともに謙信軍団の双璧をなした。かの川中島合戦の際に上杉軍の殿(しんがり)を務めたことでも知られる猛将。

尼子勝久(あまご かつひさ) 1553〜1578

新宮党誠久の子で通称孫四郎。晴久による新宮党粛清の際に逃れてのち上洛、東福寺の僧となる。のち山中鹿介らに担がれて尼子家再興を策し出雲奪還を図るが失敗。織田信長を頼り羽柴秀吉の下で再度出雲侵攻を試みるが、毛利勢に上月城を囲まれ孤立、信長の命により援軍に着陣した秀吉が引き上げたため落城、自刃した。

尼子清定(あまご きよさだ) 生没年不詳

諱は清貞とも。持久の長子で刑部少輔を称す。経久の父で出雲月山富田(がっさんとだ)城主。出雲国守護京極持隆の下で守護代を務め、応仁の乱以降は京極氏不在の領国経営と安定に努めた。対外的には山名氏の侵入を撃退、国内では松田・三沢氏など反京極勢力を鎮圧、尼子氏発展の基礎を築いた。

尼子経久(あまご つねひさ) 1458〜1541

清定の長子で民部少輔のち伊予守。出雲月山富田(がっさんとだ)城主。個人的には「無欲の人」との評があり、相手が欲しがる物は何でも気前よく与えたというエピソードが残る。初め出雲守護代として京極政経の支配下にあったが、徐々に勢力を伸ばし近隣諸豪族を傘下に組み入れ独立、戦国大名化した。一時は出雲・隠岐・石見・伯耆・美作・備後・備中に勢力を伸ばし、尼子家を山陰の大大名に発展させた名将。

尼子晴久(あまご はるひさ) 1553〜1578

経久の嫡子政久の子で修理大夫を称す。名ははじめ詮久(あきひさ)と名乗ったが、将軍義晴の偏諱を受け晴久と改名。天文二十三年、毛利元就の謀略に掛かり重鎮国久・誠久父子ら新宮党を滅ぼして以来家運が開けることはなく、毛利元就と一進一退の攻防を繰り返すが、防戦中に月山富田城で急死した。

尼子久幸(あまご ひさゆき)   ? 〜1541

清定の二男で下野守を称す。兄経久と共に苦労を重ね、常にその側にあってよく補佐した。天文九年からの毛利元就の吉田郡山城攻めに出陣した晴久(当時は詮久)に従軍するが、翌年正月晴久の本陣が奇襲を受けた際に体を張って晴久を守り通したが、引き替えに自身は戦死した。

尼子義久(あまご よしひさ)   ? 〜1610

晴久の嫡子で右衛門督を称す。父晴久の急死により家督を嗣ぐが、もはや劣勢を挽回することは出来ず、毛利元就に月山富田城へ攻め入られ降人となり開城、安芸円明寺に幽閉された。尼子家再興の意志はなかったようで、のち仏門に入り剃髪して友林と号し、毛利家の庇護下で歿した。

天野景貫(あまの かげつら) 生没年不詳

はじめ今川氏の臣。宮内右衛門尉秀藤の子で通称小四郎、宮内右衛門尉を称す。天文十六年の三河田原本宿の戦いで戦功を挙げ、義元から感状と遠江奥山郷を与えられた。遠江犬居城主となるが永禄十二年に徳川家康に降伏、後に今度は武田信玄・勝頼に仕えて家康と戦う。武田氏滅亡後は北条氏直に仕え、佐竹義重と戦った。

天野隆重(あまの たかしげ) 1503〜1584

安芸志和堀城を本拠とする国人で、はじめ大内義隆、のち毛利元就に属す。元就麾下の猛将として知られ、天文十九年には熊谷信直とともに吉川興経を攻め滅ぼし、永禄九年には元就の五男元秋の補佐として月山富田城代を務めた。伯耆末吉城や播磨上月城の戦いにも参戦している。

天野康景(あまの やすかげ) 1537〜1613

通称三郎兵衛。徳川家譜代の重臣。家康の小姓上がりで、高力清長・本多作左衛門(重次)とともに岡崎三奉行の要職を務めた。「仏高力 鬼作左 どちへんなしの天野三郎兵衛」の歌は有名(「どちへんなし」は「どっちつかず」の意)。家康が関東に移ってからは江戸町奉行に任命。

甘利虎泰(あまり とらやす)   ? 〜1548

備前守。武田信虎・信玄の重臣で譜代家老衆を務める。武田二十四将の一人で合戦巧者の猛将として知られ、板垣信方らとともにその戦いぶりは敵味方を震えあがらせたという。上田原の合戦で村上義清に敗れ、奮戦虚しく板垣信方らとともに討死した。

甘利昌忠(あまり まさただ)   生没年不詳

虎泰の子で左衛門尉、名は晴吉ともいう。武田信玄の重臣。父譲りの猛将で百騎持ちの侍大将を務め、板垣信憲とともに父虎泰亡き後も譜代家老として活躍。永禄九年以降の西上野侵攻時には真田氏ら地侍衆との取り次ぎを務めた。

鮎貝忠旨(あゆかい ただむね)  生没年不詳

盛次の長男。摂津守を称し、名は宗信とも。伊達家の家臣で鮎貝城主。父盛次と不和になりひそかに最上義光に通じて謀反したが、救援依頼をした義光からの援軍がなく、盛次らの迅速な攻撃の前に城を捨てて最上領内へ奔った。

鮎貝盛次(あゆかい もりつぐ) 1555〜1624

盛宗の子で安房守。名ははじめ宗重、晩年には日傾斎を称す。伊達家の家臣で鮎貝城主。長男忠旨が最上義光にそそのかされ籠城の上謀反、盛次はただちに政宗にこれを告げて攻め、忠旨は逃亡した。政宗は盛次の忠志を賞して咎めだてず、子孫は奉行職を務めた。

鮎川清長(あゆかわ きよなが)  生没年不詳

揚北(あがきた)衆と呼ばれる越後の国人で岩船郡大場(葉)沢城主。本庄氏の支族だが天文八年に房長と対立して戦い、これを出羽に追う。後に色部氏の仲介で和睦するが、後年房長の子繁長が上杉謙信に背いたときは子の盛長とともに謙信方について戦った。

鮎川盛長(あゆかわ もりなが)  生没年不詳

摂津守清長の子で通称孫次郎、揚北(あがきた)衆と呼ばれる越後の国人で岩船郡大場(葉)沢城主。隣郷の有力国人本庄繁長が上杉謙信に背いたときに謙信方についたため、繁長に城を攻め落とされた。御館の乱では景虎方についたが、上杉景勝と新発田重家との抗争には中立的態度をとった。

荒川長実(あらかわ ながざね)  生没年不詳

伊豆守。上杉謙信の家臣。越後十七将の一人に数えられる猛将で、永禄四年の川中島の合戦の際、武田信玄の本陣に単騎斬り込んだのは彼であると「上杉年譜」は伝える。一説にその時討死したとも後の合戦で討死したとも言われるが、詳細は不明。

荒木氏綱(あらき うじつな)  生没年不詳

丹波天田郡の国人氏好の子、山城守を称す。波多野氏の麾下筆頭格の重鎮で多紀郡井串(細工所)・園部城主。天正七(1579)年の明智光秀丹波侵攻の際、光秀は波多野秀治の拠る八上城を落とせず氏綱に母を人質として預け和議により開城させた。以後光秀の麾下に属すよう求められるが固辞、本庄の館へ退いて隠居し子の氏清を代わりに仕えさせたという。

荒木村重(あらき むらしげ)  1535〜1586

摂津池田氏六人衆の一人義村の子で織田信長の重臣。通称弥介または信濃、のち摂津守を称す。はじめ池田勝正のち織田信長に仕え、有岡城を居城として摂津国主となる。天正六年に信長に背き攻撃されるが一人で城を逃げ出したため、妻ダシ(Daxi)や親類縁者は尼崎七松で皆殺しにされた。茶人としても高名で、利休七哲の一人と伝えられる。

有馬晴純(ありま はるずみ)  1483〜1566

元は賢純と称したが、将軍足利義晴より一字を貰い晴純と改名。九州北部に勢力を伸ばし肥前西半国を領有するに至る。高来屋形と呼ばれ肥前守護に任じられた名君で七十歳まで現役当主で活躍。子の義貞、孫の晴信はキリシタン大名として有名。

有吉立行(ありよし たつゆき) 1558〜1584

細川氏の家臣。立言の子。天正元年の山城淀城攻撃で初陣を飾って以後各地で活躍、三千石を領した。慶長五年二月には豊後木付城代となり翌年に検地を実施、同七年には宇佐郡奉行を務めた。天正十二年十二月十四日没、享年二十七歳。

粟屋元秀(あわや もとひで)  生没年不詳

安芸毛利氏譜代家臣で通称縫殿允、備前守を称す。毛利元就の家督相続時には一族(本家)の元国の依頼を受け上京、将軍義晴に元就相続を直訴した。また同年猿掛城の元就に宗家相続を要請した宿老衆十五名の中にも名を連ねている。

安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) ? 〜1600

佐東銀山城を本拠とする安芸の名族武田氏の一族・武田信重の子で、後に毛利家の外交担当となった臨済僧。信長の奇禍を予言したことで知られる。秀吉との備中高松城対峙の際に活躍、後には秀吉麾下の大名となる。東福寺住職も務めたが関ヶ原で敗れ、石田三成・小西行長とともに西軍の首謀者の一人として京都六条河原で斬首された。

安藤直次(あんどう なおつぐ) 1544〜1635

通称帯刀(たてわき)。徳川家譜代の重臣。家康の側近の一人で信頼も厚く頼宣の付家老を命ぜられ、頼宣が紀伊に移ると同時に遠江掛川城主から紀伊田辺城主に。

安藤守就(あんどう もりなり)  ? 〜1582

美濃斎藤氏の重臣・西美濃三人衆の一人で本巣郡北方城(合渡城)主。娘は竹中半兵衛の妻。通称平左衛門、伊賀守または日向守を称す。姓は安東・伊賀、名は範俊・定治とも。龍興の時に織田信長に通じたが、天正八年に武田家内通の罪により織田家を追放された。本能寺の変の際に混乱に乗じて旧城に入るが、稲葉一鉄に攻められ敗死した。



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