戦国を生きた男たち
《 武将編 ち: 千坂景親〜長 連竜

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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千坂景親(ちさか かげちか)    ? 〜1606

越後蒲原郡白河荘を本拠とする国人で、同郡護摩堂(鉢盛)城主。藤右衛門景長の子で対馬守を称す。上杉謙信・景勝の家臣で天正三年には七手隊頭を務めた。謙信没後は景勝に仕え、京都伏見留守居役を命じられた。

千葉邦胤(ちば くにたね)   1557〜1585

胤富の嫡子で北条氏傘下の下総の国人。父胤富の死去により千葉家当主となる。妻は北条氏直の姉(名目上は養女)。父胤富や北条氏に従い各地を転戦、勇将の名を馳せたが天正十三年近臣の遺恨により本佐倉城内で暗殺された。

千葉胤富(ちば たねとみ)   1527〜1579

千葉介昌胤の二男で北条氏傘下の下総の国人。はじめ森山城のち本佐倉城主。里見家の正木時茂に属城を奪われるが程なく奪回、また主家に背いて下総に侵入した正木時忠と九十九里平野で戦いこれを撃破した。

長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ) 1547〜1600

島津氏家臣。畠山頼国の子で大善坊を称す。名は阿多盛淳とも。義弘の家老を務めた大隅蒲生地頭。三歳の時以来紀州高野山・根来寺で修行、のち薩摩へ戻り安養院住持となる。天正十六年には義久に同道し石田三成と会見、関ヶ原の際には義弘の身代わりとなり、豊久とともに東軍の追撃をくい止め壮絶な討死を遂げた。

長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか) 1565〜1586

元親の嫡子で幼名千雄丸のち弥三郎を称す。名の「信」は織田信長からの拝領。秀吉の九州征伐の際、父元親や十河存保らとともに島津軍と豊後戸次川において戦う。しかし軍監の仙石秀久や旧怨を含む十河存保と意見が合わず無謀な戦いを強いられ、敵方も称賛したほどの奮戦も虚しく二十二歳の若さで戦死。その手には信長から贈られた名刀・左文字が握られていたという。

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか) 1539〜1599

国親の子。初名弥三郎、宮内少輔、土佐守。軍政両面に優れた土佐の名将で、分国法「長宗我部元親百箇条」を制定したことで知られる。天正十三年春に念願の四国統一を成し遂げるが、直後に四国へ侵攻してきた秀吉の大軍の前には衆寡敵せず、同年八月に降伏。後は忠実な秀吉傘下の大名となり羽柴姓を許され、また従四位下に叙せられ土佐侍従と呼ばれた。秀吉の九州征伐の際に戸次川合戦で長男信親を亡くしてからは精彩を欠くが、小田原攻めや文禄役にも参陣した。慶長四年五月十九日、京都伏見にて没。享年六十一歳。

長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか) 1575〜1615 

元親の四男。兄信親の死により家督を相続。父と共に「長宗我部元親百箇条」を制定した。関ヶ原では西軍に属したため戦後に浪人、大岩幽夢と名を変え京の寺子屋の師匠にまで身を落とす。大坂の陣の際は主将格の一人となり冬の陣で活躍したが、夏の陣で敗れ斬首された。

長 景連(ちょう かげつら)    ? 〜1582

通称与一、能登守護畠山氏庶流長連之(黒滝長氏)四代の孫と伝えられる。上杉謙信・景勝の家臣で謙信の能登侵攻後に珠洲郡正院城将となる。天正七年織田方温井景隆らの攻撃により越後に敗走、同十年には再度能登に入り鳳至郡棚木城を占拠するが、織田方長連竜に攻め落とされ討ち取られた。

長 続連(ちょう つぐつら)    ? 〜1577

通称新九郎または九郎左衛門、平加賀守盛信(秀連)の二男で長英連の婿養子となり、はじめ勝連を名乗り対馬守を称す。能登守護畠山氏の重臣で鳳至郡穴水城主。織田信長に通じ、上杉謙信の能登侵攻時に謙信方についた遊佐続光の降伏勧告を拒否したため、遊佐邸に呼ばれ自害させられた。

長 綱連(ちょう つなつら)  1540〜1577

通称大九郎または左兵衛のち九郎左衛門、続連の子ではじめ重連を名乗る。能登守護畠山義隆の重臣で義隆殺害時には遺児春王丸の後事を託された。織田信長に通じ七尾城に籠もって上杉謙信に対抗するが、謙信方についた遊佐続光により殺害された。

長 連竜(ちょう つらたつ)  1546〜1619

通称万松または九郎左衛門、続連の二男ではじめ池崎孝恩寺の臨済僧で宗顕を号したが、天正五年還俗、兄綱連とともに織田信長に通じ上杉謙信に対抗。信長の能登統一後は鹿島郡福水城を与えられ前田利家の与力となり、本能寺の変後には利家に臣従し加賀藩の重臣となった。



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