戦国を生きた男たち
《 武将編 き: 喜入季久〜木脇祐昌

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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喜入季久(きいれ すえひさ)  1532〜1588

島津氏の一族忠俊の子で薩摩鹿籠(かご)山之城主。名ははじめ島津忠賢、通称三郎四郎、摂津守。当初勝久と関係が深かったが享禄年間に忠良方に転じ、永禄元年には貴久の命により島津姓から所領地名の喜入に改姓した。義久の家老(老中)を務め、日向伊東氏はじめ近隣豪族との外交・交渉にあたる一方、大隅横川攻め・高城攻め等をはじめ、伊東・菱刈・大友氏との戦いで軍功も数多くあげた。立花(華道)・連歌にも長じていたという。

木沢長政(きざわ ながまさ)    ? 〜1542

左京亮。河内飯盛(山)城主で同国守護代を務める。『畠山家記』には「希代ノ悪人」と見え、初め畠山義宣の家臣であったが、のち細川高国・晴国・晴元に属す。天文元(1532)年五月、旧主畠山義宣に飯盛城を包囲されるが、細川晴元・本願寺証如の加勢を得てこれを破り、義宣を自刃させた。天文五(1536)年には大和乱入を目論み信貴山に城を構えるが、一部は支配下に置いたものの晴元・三好政長らと対立、同十一年三月十七日に河内太平寺にて戦うが敗れ、戦死した。大阪府柏原市の安堂・太平寺墓地に墓がある。

木曽義昌(きそ よしまさ)     ? 〜1595

信濃木曽谷の土豪で武田氏に属す。妻は信玄の娘。信玄の代は忠実な家臣として活躍したが、勝頼の代になると斜陽の武田氏を見限って信長に内通し、武田家崩壊を早める要因となった。本能寺の変後は秀吉に臣従した。

北 信愛(きた のぶちか)   1523〜1613

陸奥南部氏の一族で通称彦太郎、尾張守を称す。初め剣吉城主で後に花巻郡代を務め、松斎と号した。南部家重臣(家老)で、主に外交と頻発した一揆の鎮圧に活躍。信心深く、戦の際は常に観音像を肌身離さなかったという。

北条景広(きたじょう かげひろ)  ? 〜1579

高広の子で丹後守。上杉謙信の家臣で、妻は能登守護畠山義隆の未亡人三条氏。御館の乱の際に景虎に加勢し、北条軍を誘導して坂戸城を攻めるなど景虎方の中心的な活躍をするが、御館での戦闘中に荻田孫十郎の槍に討たれた。

北条高広(きたじょう たかひろ) 生没年不詳

丹後守、安芸守。越後の国人で上杉謙信に属す。武田信玄にそそのかされ二度謙信に背くが復帰、両度とも許された。上州厩橋城代を務めた重臣だったが御館の乱の際に景虎に加勢したため、追われて一時は武田勝頼の下に身を寄せたが、後に勝頼のとりなしで景勝に復帰した。

北畠具教(きたばたけ とものり)1528〜1576

多芸御所と呼ばれた伊勢最後の国司。塚原卜伝門下の剣豪大名として名高く、将軍足利義輝とも交わりがあったと伝えられる。後に信長の侵攻に抗しきれず、和睦したものの二男の信雄に家を譲らされ、程なく信長の命で送り込まれた旧家臣達の手により居館の三瀬館において暗殺された。

吉川経家(きっかわ つねいえ) 1547〜1581 

毛利家家臣で式部少輔。織田家の山陰侵攻に窮して援助を求めてきた山名豊国に代わり鳥取城へ派遣されたが、秀吉の干し攻めに遭いなすすべなく力尽き、城兵の助命と引替えに切腹して果てた。

吉川広家(きっかわ ひろいえ) 1561〜1625

元春の三男で、兄元長の陣歿により家督を嗣ぐ。通称少輔次郎または次郎五郎、初名は経言。朝鮮の役で活躍した勇将。関ヶ原では一旦西軍に属すが毛利家存続のため家康と密かに内通して奔走、しかし結局は大減封された。戦後輝元から周防岩国三万石を与えられたが、家中からは白眼視されたという。

吉川元長(きっかわ もとなが) 1548〜1587

吉川元春の長男、少輔次郎。十四歳の時に元服し元資と名乗り、天正元年に元長と改名。父元春に従って各地を転戦した。秀吉の九州攻めの際に従軍したが、日向都於郡の陣中で病を得て四十歳の若さで没した。

吉川元春(きっかわ もとはる) 1530〜1586

毛利元就の次男で山陰方面の統治を任され、山陽方面を任された弟の隆景と「毛利両川体制」の一翼を担って当主輝元を補佐した毛利家武闘派筆頭の猛将。上月城攻めでは降伏した猛将山中鹿介を護送途中に謀殺。徹底した秀吉嫌いで知られ、その九州島津攻めの際に嫌々参加したが小倉の陣中で病死した。

木戸忠朝(きど ただとも)     ? 〜1574?

伊豆守。はじめ河田谷右衛門大夫と称す。武蔵の国人で羽生城主木戸範実の子で、上杉謙信の関東進出時にその麾下となる。成田長泰が背いたときにはその監視役を務めたが、羽生城はたびたび北条方の攻撃を受け、維持困難と見た謙信が破却した。

衣笠景延(きぬがさ かげのぶ) 1553〜1631

播磨小寺家のち黒田家の臣で、黒田二十四騎の一人。通称久右衛門、因幡守。官兵衛孝高が荒木村重の手により摂津有岡城に幽閉された際、留守を務める。秀吉の九州攻めの際には豊前姫隈城攻めで活躍、朝鮮役の際には長政の下で先手を務めた。関ヶ原の際には孝高に従い刈田城に入り、小倉口を守る。長政の筑前入国後に三千石を領した。

木下勝俊(きのした かつとし) 1569〜1649

家定の長男で、北政所(秀吉の妻)の甥。近親ということもあり幼少時より秀吉に仕え、のち羽柴姓を許されて羽柴若狭侍従を称す。さらに官位は参議まで昇るが、関ヶ原の際西軍に属して失領、剃髪して京都東山に退隠して長嘯子(ちょうしょうし)と号す。和歌に堪能で近世和歌の祖といわれ、『挙白集』を残した風流人。

木脇祐秀(きのわき ひろひで)  1577〜1619

島津義弘の家臣で祐昌の二男。休作のち刑部左衛門を称す。兄祐吉の戦死により家督を嗣ぐ。大男で武勇に優れたと伝えられ、朝鮮役では義弘に従って奮戦し、その功により長刀を拝領した。関ヶ原では義弘の敵中退却を支え、最後まで殿軍として奮闘、身を挺して義弘を守った。戦後五十石を加増され蒲生・平松・加治木と所領を替え、元和五年八月十六日、義弘死去に際して殉死した。

木脇祐昌(きのわき ひろまさ)    ? 〜1585

島津氏の家臣ではじめ日向木脇、のち肥後花山地頭。弘治元年の忠良による大隅蒲生攻め北村の戦いにおいて、急を聞いて馳せ戻り奮戦して軍功をあげ、天正元年には義久に従い禰寝(ねじめ)氏を支援し活躍。しかし天正十三年、肥後花山を守備中に阿蘇氏の攻略に遭い、奮戦虚しく鎌田政虎とともに討死した。

木村重成(きむら しげなり)  1593〜1615 

豊臣秀頼の臣、長門守。木村常陸介の子ともいうが定かではない。大坂の役の際に一方の大将を務め、井伊直孝軍と河内若江にて交戦して戦死。非常な美男子と伝えられ、報に接した城内の婦女子は皆泣いたという。また徳川方の首実検の際に、兜の緒が切られ、さらに名香が焚き込められていたことから敵方の諸将にもその武者振りを賞賛されたという。

木村吉清(きむら よしきよ)   ? 〜1598

伊勢守。はじめ明智光秀に仕えたが、山崎合戦以降は秀吉に仕える。諱は清久とも。秀吉の小田原討伐後に奥州葛西・大崎で三十万石を与えられるが、翌年に同地で一揆が起きたため所領を没収され蒲生氏郷の与力となった。蒲生氏の宇都宮移封に際して同氏の下を離れ、豊後で一万四千石を領した。

肝付兼続(きもつき かねつぐ) 1511〜1566

兼興の子で大隅の有力国人肝付氏第十六代当主。天文二年に家督を嗣ぎ、はじめは天文八年の市来攻めにも従軍するなど島津氏と友好関係にあったが、永禄四年、宴席で島津氏重臣伊集院忠朗が兼続の家臣薬丸氏に鶴の羮(あつもの)を勧めたことに腹を立て(鶴は肝付氏の家紋)、一転して島津氏と衝突。島津忠将を討ち取るなど日向伊東氏とも連携して奮戦するが、永禄九年に本城を落とされ、翌日自刃した。

肝付兼寛(きもつき かねひろ) 1558〜1590

島津義久の家臣。貴久・義久の家老を務めた兼盛の嫡子で、父の後を継いで大隅加治木城主となり一万五千石余を領した。通称は三郎五郎、弾正忠を称す。義久に従い、天正八年以降肥後・肥前攻めに従軍して軍功をあげた。また上井覚兼から「雨宝童子之法」の秘伝を伝授されたという。

肝付兼演(きもつき かねひろ)   ? 〜1552

兼国の子で大隅の有力国人肝付氏庶流。通称は三郎五郎、越前守を称す。本家が島津氏と対立する中で早くから忠良に通じ、大永七年に帖佐、また享禄二年には大隅加治木を与えられた。一時薩州家実久に通じ忠良・貴久と抗争するがのちに和睦、天文十八年に加治木領を安堵された。

肝付兼盛(きもつき かねもり)  1533〜1578

兼演の嫡子で通称は三郎五郎、弾正忠を称す。島津貴久・義久の家老で大隅加治木城主。天文十八年に父兼演とともに貴久に服属し加治木領を安堵され、以後蒲生攻めや日向伊東氏攻めに従軍し軍功をあげ、永禄十一年には忠良から特に軍功を賞された四人のうちの一人に選ばれたという。

京極高次(きょうごく たかつぐ) 1563〜1609

足利義輝・義昭の近習高吉の長男。通称は小兵衛、若狭守・羽柴京極侍従のち大津宰相を称す。本能寺の変の際に明智方に加担し旧領復活を策すが失敗、妹を秀吉の側室に差し出し赦された。関ヶ原では一時西軍に属すが、翻意して大津城に籠城。しかし立花宗茂の猛攻の前に剃髪して開城した。戦後家康より若狭小浜八万五千石を与えられた。

京極高吉(きょうごく たかよし) 1508〜1581

近江守護の名族佐々木六角氏の支流京極氏十八代当主で高秀の子。足利義輝の近習を務め、義輝の奇禍の際には一条院覚慶(後の義昭)の還俗および将軍位就任のために奔走した。しかし義昭に従っていたことから織田信長と対立するに至り、子の小法師(後の高次)を人質に出して蟄居したという。

吉良氏朝(きら うじとも)   1542〜1603

堀越公方今川貞基の子で、名ははじめ頼貞、左兵衛佐を称す。吉良頼康の養子となり、武蔵世田谷に移った。妻は北条氏康の娘で、嫁入り時に「幻庵覚書」を持参したことで知られる。秀吉の小田原攻めの際に上総へ逃れ、後徳川家康に仕え再び世田谷に所領を与えられたが程なく返上、弦巻で隠居したという。

桐山丹斎(きりやま あきとき) 1554〜1625

職隆以来の黒田家の臣で、黒田二十四騎の一人。通称孫兵衛、大炊助、丹波守。官兵衛孝高が荒木村重の手により摂津有岡城に幽閉された際、留守を務める。秀吉の九州攻めに従い、朝鮮役の際には長政の下で高名を挙げる。関ヶ原の際には孝高に従い馬ヶ岳城を守った。長政の筑前入国後に三千石を領し、晩年には六千石に加増され中老に列し、御笠郡山家宿の代官を務めた。



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