戦国を生きた男たち
《 武将編 も: 毛利興元〜諸角虎定

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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毛利興元(もうり おきもと)  1493〜1516

弘元の嫡子で安芸毛利氏第9代当主、元就の兄。わずか8歳で父の隠居により家督を嗣ぐ。隣郷の甲立五龍城主宍戸元源との抗争に苦慮したが、永正十二年には己斐城に攻め込んだ武田元繁を撃破した。しかし酒浸りの生活がたたり24歳の若さで病没した。

毛利勝永(もうり かつなが)  1577〜1615

豊前小倉城主毛利勝信(吉成)の子で豊前守を称す。名は吉政ともいう。関ヶ原の際に西軍に加担し失領、父の勝信とともに土佐の山内一豊預けとなるが、大坂の陣の際に隙を見て抜け出し入城。真田幸村らと共に大坂方で最も奮戦したが、落城とともに自害した。

毛利勝信(もうり かつのぶ)    ? 〜1611

豊臣秀吉の家臣で初名は吉成、壱岐守を称した豊前小倉六万石の主。関ヶ原の際には西軍に加担し伏見城攻めに参加、決戦では毛利秀元の指揮下に入り南宮山に陣したが吉川広家に阻まれ戦うことなく敗走、戦後失領し子の勝永(吉政)とともに土佐の山内一豊預けとなった。

毛利隆元(もうり たかもと)  1523〜1563

元就の長男で大膳大夫を称す。幼時から宿老志道広良の薫陶を受ける。親孝行息子で家中の信望も厚く統率力にも優れ、元就からも期待されていたが、尼子討伐戦の陣中で病により四十一歳で急死した。饗応の直後だったため、和地誠春らによる謀殺説も流れたという。

毛利輝元(もうり てるもと)  1553〜1625

隆元の長男。元就直系の嫡孫で、元就の没後家督を嗣ぐ。はじめ羽柴秀吉と交戦するが、のち秀吉麾下に入り豊臣家五大老の一人に任命され、広島城主として中国九ヶ国百二十万石余を領し安芸中納言を称す。関ヶ原の際には西軍の総大将として担がれ、戦後防長三十六万石余に減封。のち剃髪し幻庵宗端と号した。

毛利秀元(もうり ひでもと)  1579〜1650

穂田元清の子で長府毛利氏の祖。右京大夫・伊予守・甲斐守・安芸侍従を称す。はじめ毛利輝元の養子となり、朝鮮役の際には輝元に代わって指揮を執るが、実子秀就誕生のため防長二国に所領を与えられ山口城主となる。関ヶ原の敗戦後、長門豊浦郡長府城に移り徳川家康の養女(松平康元の娘)を継室に迎え、大坂の役にも参陣した。慶安三年閏十月三日、江戸で没。

毛利弘元(もうり ひろもと)  1468〜1506

安芸の国人で吉田郡山城を本拠とする安芸毛利氏第8代当主。元就の父。大内政弘の偏諱を受けて弘元を名乗る。はじめ大内氏に属すが、幕府から大内氏追討命を受け苦慮、重臣坂広秋らと意見が対立したこともあり、家督を嫡子興元に譲り多治比猿掛城に隠居した。

毛利元就(もうり もとなり)  1497〜1571 

弘元の二男で幼名松寿丸。政治・戦術・謀略・外交のいずれにも長じた安芸吉田郡山城主。弘治元年の厳島合戦では村上水軍の力を借りて陶晴賢の大軍を奇襲で破る。大内・尼子両大大名の間に板挟みとなって進退に苦慮するが、寡兵ながらも卓越した謀略を駆使して次第に勢力を拡げ、ついに両家を倒した。一時九州にも進出して豊後の大友義鎮と戦うが、元亀二年六月、郡山城で没した。

毛利元政(もうり もとまさ)  1559〜1609

天野元政。元就の七男で幼名千虎丸、小輔六郎を称す。掃部頭のち従五位下讃岐守、毛利八家の一つ右田毛利氏の祖。永禄十二年に安芸の名族天野氏の婿養子となり家督を嗣ぎ、米山城に入る。多くの合戦に従軍し、上月の戦いでは抜群の戦功を挙げた。関ヶ原の西軍敗戦と毛利氏減封を機に周防熊毛郡三丘(みつお)を領し、剃髪して宗休と号した。慶長十四年四月二十九日、長門萩にて没。

最上義光(もがみ よしあき)  1546〜1614

義守の子で奥州最上氏第十一代当主の山形城主。謀略を尽くし、反目していた弟の義時や「最上八楯」と呼ばれる有力土豪天童氏らの邪魔者を一掃して当主の座をつかんだ謀将。関ヶ原では東軍に属し、上杉家の直江兼続と戦う。戦後出羽五十七万石の主となるが、義光没後に家中の内紛から改易された。

本山茂辰(もとやま しげとき) 生没年不詳

土佐本山城主で安政とも。父の茂宗(清茂とも)の代から長宗我部国親・元親親子と対立し、国親に敗れて弱体化。後に元親の傘下に属した。妻は国親の長女。

茂庭延元(もにわ のぶもと)  1549〜1640

良直の子で伊達政宗の重臣。名ははじめ鬼庭綱元を称す。文禄の役以降は秀吉の命により茂庭姓に改めた。軍政両面に活躍、秀吉にも気に入られて絶世の美女であった愛妾「香の前」を賜ったが、これが元で政宗の嫉妬を買い出奔。後許されて戻り、政宗に彼女を献上し事なきを得たという。

籾井教業(もみい のりなり)    ? 〜1576

丹波国波多野氏家臣の籾井城主で武芸に長じ、赤井(荻野)悪右衛門直正の「赤鬼」と並んで「青鬼」の異名を取る猛将。羽柴秀吉の中国侵攻軍と戦うも落城、戦死した。

百地丹波守(ももち たんばのかみ)  生没年不詳

名は正西(まさあき)とするものもあるが、世襲による呼称と思われ、人物の特定はできない。伊賀竜口と喰代(ほおじろ)にある伊賀上忍三家の一つ百地家の当主で、服部保長が京へ去った後に伊賀国内での実権を握る。天正伊賀の乱の際には軍師的存在として国人衆を指揮し、信長軍に抵抗した。一説に大盗賊石川五右衛門は忍術の達人百地三太夫の弟子とされるが、三太夫がこの百地丹波である事を示す資料はない。

森 忠政(もり ただまさ)   1570〜1634

可成の六男で長可・蘭丸らの弟。美作守のち左中将。豊臣秀吉に仕え、羽柴侍従の名を許されて右近大夫忠政を名乗り美濃金山城主となる。秀吉没後は徳川家康に仕え、秀忠に属して真田昌幸籠もる上田城攻めに参戦した。慶長八年二月、それらの功により美作津山城(藩)主となったが、寛永十一年七月、京都大文字屋で食中毒を起こして翌日に宿所の妙顕寺で急逝した。

母里友信(もり とものぶ)   1556〜1615 

但馬守。通称の母里太兵衛として広く知られる。播磨妻鹿(めが)の生まれで黒田孝高・長政二代にわたる家臣。「黒田八虎」の一人に数えられた勇将で槍術にすぐれ、栗山備後守利安とともに黒田長政の先手左右の大将を務め、朝鮮の役等数多くの合戦で活躍した。主君に向かって数々の直言・強諫も辞さない典型的な豪傑として知られ、福島正則から「呑み取った」名槍日本号を操り、黒田節にその姿を唄われたことで有名。

森 長可(もり ながよし)   1558〜1584 

織田信長の家臣。可成の次男で美濃金山城主。名は長一、可長とも。通称勝蔵、武蔵守。父可成の戦死により十三歳で家督を嗣ぐ。信長の下で伊勢長島・有岡城・高遠城攻めなど各地を転戦して戦功を挙げ、その戦い振りから「鬼武蔵」の異名をとる。武田家滅亡後は北信濃四郡を拝領して海津城主となった。信長の没後は秀吉に従い、長久手合戦で徳川方の一斉射撃に遭い、真額を打ち抜かれて戦死。

森 好高(もり よしたか)  生没年不詳

幼名千代丸、通称九兵衛・縫殿助。志摩守好之の子で妻は松倉右近の娘。天正九年に父好之の死去により遺領を継ぐ。筒井定次の移封により伊賀に赴くが、天正十五(1587)年に伊賀を去り南都傳香寺に遊居と伝える。知行五千石、後に大津姓に改姓したという。

森 可成(もり よしなり)   1523〜1570

通称三左衛門。織田家家臣で美濃金山城主。主に諜報活動などを担当したことから、忍者上がりではないかとも言われる。元亀元(1570)年九月二十日、本願寺に呼応した浅井長政・朝倉義景に攻められ近江宇佐山城で戦死。享年四十八歳。

森 好久(もり よしひさ)   1538〜1582

通称傳助・隼人佐、縫殿助好高の従兄弟で二千石を領す。妻は小泉四郎左衛門秀元の妹。一説に天正五(1577)年の信長による信貴山城攻めの際、松永方に潜入して筒井氏の軍勢を城内に手引きしたとされる。天正十年十月六日没、享年四十五歳という。

森 好之(もり よしゆき)   1518〜1581

志摩守。大和筒井氏の一族で、妻は筒井順昭の妹。森本に住し島氏・松倉氏とともに「筒井の三老」と称される。筒井順昭・順慶に仕え七千石を領し、詳しい事績は不詳だが天正九(1581)年筒井城にて没したという。享年六十四歳。

森 蘭丸(もり らんまる)   1565〜1582

可成の三男で本名は長定。織田信長の小姓を務め、特に取次ぎ役として重用される。本能寺の変の際には最後まで信長の側を離れず奮戦、十八歳の若さで討死した。

諸角虎定(もろずみ とらさだ)   ? 〜1561

豊後守。姓は両角・室住・諸住とも書く。武田信虎・信玄二代に仕えた重臣で猛将の誉れ高く、騎馬大将(五十騎持ちの足軽大将)を務める。永禄四(1561)年の第四回川中島の合戦にて激戦の末に戦死。



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