戦国を生きた男たち
《 武将編 り: 竜崎道輔〜龍造寺高房

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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竜崎道輔(りゅうざき みちすけ) 生没年不詳

周防大内氏の家臣で中務丞を称す。大内政弘の歌集『拾塵集』の撰者のうちの一人で、『大内問答』にも登場する文化人。義興の奉行を務め、永正五年には義興に従って上洛した記録がある。

龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね) 1454〜1546 

肥前龍造寺氏十四代康家の子で水ヶ江龍造寺氏の祖。通称は剛忠、山城守を称す。少弐資元の被官として享禄三年に大内方杉興運を田手畷にて破るが、後に馬場頼周の謀略により失脚、一時浪人する。翌年再挙の兵を挙げ馬場父子を討ち取り、以後の龍造寺氏の礎を築いた。

龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ) 1529〜1584

肥前龍造寺氏第十九代当主。山城守。初め出家の身であったが曾祖父家兼の死により還俗して家督を嗣ぎ、「五州二島の太守」と呼ばれるまでにのし上がって大友・島津氏と争った。猛将の評高く「肥前の熊」と恐れられたが、沖田畷の合戦で自軍の兵数の優位から楽観して油断し、島津家久・有馬連合軍の猛攻を受け乱軍の中で家久の家臣川上左京亮に討たれた。

龍造寺高房(りゅうぞうじ たかふさ)   ? 〜1607

政家の子で肥前龍造寺氏第二十一代当主、隆信の嫡孫。幼名長法師丸、駿河守。天正十八年に父政家が秀吉の命で隠居させられ五歳で家督を嗣ぐが、すでに実権は鍋島直茂の手にあった。その後諸大夫として徳川秀忠に仕えるが慶長十二年春、突如夫人を殺害して自らも切腹を図り、九月六日に没した。龍造寺氏に代わって佐嘉藩主となった鍋島氏に当てつけたように取れるこの事件は、後に巷に流布された「鍋島化け猫騒動」の題材となった。



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