浅井三代の墓

向かって右から順に亮政・久政・長政の墓。
☆関連武将☆

浅井亮政(あざい すけまさ)    ? 〜1542

浅井は「あざい」と読むのが正しい。近江浅井郡小谷城を本拠とする国人で、京極氏の下で勢力を徐々に拡張し、越前の朝倉孝景や美濃の斎藤道三らと結び江北の覇者となる。近江守護の六角定頼とは終始近江の覇権を争って戦った。

浅井長政(あざい ながまさ)  1545〜1573

久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。信長の妹・お市の方を妻に貰い受け織田家との友好を深めるが、信長の約束違反とも言える朝倉攻めに際には情誼を優先して朝倉方に加担、信長の背後から攻めかかった。勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも三年後に信長の再攻撃を受け、三人の娘を城外に落とした後力尽きて自害。

浅井久政(あざい ひさまさ)    ? 〜1573

亮政の長子で下野守を称した北近江・小谷城主。父亮政の死により1542年に家督を嗣ぐが、六角氏や京極氏の勢力に挟まれて苦況に陥る。1560年に子の長政や家臣たちと家の存続方向をめぐって対立、家督を長政に譲って隠居した。内政的には領国支配の基礎を確立させるなど、業績を残している。

写真は滋賀県長浜市の徳勝寺にある浅井三代の墓で、法名は亮政「救外宗護」、久政「久岳良春」、長政「養源院天英宗清」。それぞれのクローズアップ画像はこちらへ→ 亮政の墓碑 久政の墓碑 長政の墓碑

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