小田原北条家の墓

☆関連武将☆

北条氏規(ほうじょう うじのり)1545〜1600

氏康の四男で伊豆韮山城主。家康の親友と伝えられ、小田原攻めの際は主君氏直に家康を通じての降伏をすすめ、開城後は高野山へ追放された主君とともに同行した。

北条氏政(ほうじょう うじまさ)1538〜1590

氏康の子。決して暗君ではなかったが、名族意識が強く秀吉からの再三にわたる上洛要請を拒否、秀吉軍に敵対し小田原城に籠城。三月後に弟の氏照と共に切腹、開城。

北条氏康(ほうじょう うじやす)1515〜1571

氏綱の子で小田原北条氏三代の名君。信玄や謙信に一歩も引けを取らず、関八州の領土を守った。河越城主・北条綱成の救援に向かい、十倍もの敵を蹴散らした河越夜戦の奇襲は戦国合戦史に名高い。

北条幻庵(ほうじょう げんあん)1493〜1589

北条早雲の三男で氏綱の弟。北条家五代の長きにわたって仕えた重臣で、九十六歳もの長寿に恵まれ「北条幻庵覚書」を著した文化人武将。主に外交などに活躍した。

北条早雲(ほうじょう そううん)1432〜1519 

小田原北条氏の祖。伊勢浪人(備中伊勢氏の出自説有り)から身を起こし、大名にまで昇りつめた戦国大名の典型。ちなみに早雲自身は伊勢姓を名乗り、北条姓は子の氏綱からである。

北条綱成(ほうじょう つなしげ)1515〜1587

相模の土豪副島(くしま)氏の出身で、人柄を見込まれ氏綱の婿(妻は氏綱の娘)に。戦場では地黄(じき)八幡と呼ばれる旗を背に、常に「勝った!」と叫んで突撃したという小田原北条家筆頭の猛将。


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