島左近の墓(立本寺教法院)

☆関連武将☆

島 清興(しま きよおき)   1540?〜1600  

大和平群谷の出自で、通称左近、名は勝猛・清胤・友之・昌仲などとも記録に見える。筒井順慶の下で松蔵右近とともに「筒井の左近右近」と並び称された名将で、筒井家の伊賀移封後に定次のもとを離れ、石田三成から高禄で招聘されたとされる。石田家の筆頭家老を務め軍事全般を司り、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いでは小戦ながら東軍方中村一栄を破る。しかし翌日の決戦で黒田長政隊の銃撃を受けて負傷、以後の消息は不明。戦死したとも西国・京都・東北などへ脱出したとも伝えられる。
これは京都市上京区の立本寺教法院にある左近の墓で、墓標には「友之」の名が見られ、台座には「土葬」とある。本当に左近はこの墓の下に眠っているのだろうか。法名は「妙法院殿島左近源友之大神儀」、歿年時は寛永九(1632)年六月二十九日とあるのだが。。。他にも左近の墓と伝えられるものが奈良市の 三笠霊苑東大寺墓地対馬(長崎県厳原町)の島山、陸前高田市の浄土寺にあり、供養墓が 大阪市淀川区の木川墓地 にある。

BACK  TOP  HOME