島津豊久の墓

☆関連武将☆

島津豊久(しまづ とよひさ)  1570〜1600 

貴久四男家久の子で初名は忠豊、通称は又七郎、中務大輔を称す。永吉島津氏二代当主で日向佐土原領主。秀吉の小田原攻めや朝鮮の役で活躍したが、関ヶ原での退却時に阿多盛淳とともに伯父義弘の身代わりになり、敵の刃を一身に受けて壮絶な討死。しかしこの奮戦のお陰で義弘は無事薩摩に帰り着くことが出来た。
写真は岐阜県上石津町の瑠璃光寺横にある豊久の墓で、牧田烏頭坂の殿(しんがり)戦で瀕死の重傷を負った豊久は家臣に助けられてここまでたどり着いたが、足手まといになるのを良しとせず自刃したと伝えられている。他に宮崎県佐土原町の天昌寺跡にも墓が、また激闘の地・ 烏頭坂 にも碑がある。法名は「天岑昌運」。


BACK  TOP  HOME