豊臣家の墓

☆関連武将☆

豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ) 1568〜1595

母は秀吉の姉。最初は秀吉の後継として期待され関白にまで登りつめるが、後継ぎの秀頼が誕生すると身の不安から乱行を繰り返して「殺生関白」と呼ばれた。後に秀吉の命にて高野山へ謹慎させられ、程なく同地で切腹。

豊臣秀長(とよとみ ひでなが) 1540〜1591

通称大和大納言。秀吉の弟で、兄の覇業を蔭で支えた最大の功労者。温厚な性格で人当たりもよく皆から慕われたが五十一歳で病死。豊臣政権の事実上の治政実務を司った名補佐役。

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) 1536〜1598 

戦国一の出世人。信長の草履取りから侍大将、大名と出世し、本能寺の変後山崎にて明智光秀、賤ヶ岳にて柴田勝家を滅ぼし不動の地位を固める。小田原攻めにて北条氏を滅ぼし、ついに天下を掌握して関白に。しかし晩年に二度の朝鮮侵略の暴挙に出て失敗、その途中に病死。

豊臣秀頼(とよとみ ひでより) 1593〜1615

秀吉の子で母は浅井長政の娘・淀君、妻の千姫は家康の孫。大坂の陣の際は母淀君らの口出しに逆らえず、冬の陣では家康の計略に掛かって和睦、城の堀を全て埋められた。夏の陣にて野戦部隊は奮闘したが衆寡敵せず全滅、炎上する城で一族郎党と共に自刃。


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