山中鹿介の墓

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山中幸盛(やまなか ゆきもり) 1545〜1578 

通称鹿介。尼子家の勇将で主家復興に尽し奔走したが、上月城にて毛利軍の包囲に遭い、援軍の秀吉が兵を退いたため孤立し無念の降伏。この上は毛利家の当主・輝元と差し違えんと心中深く期したが、吉川元春に見破られ安芸国へ護送中に阿井(合)の渡で謀殺された。
写真は鳥取県鹿野町の幸盛寺にある鹿介の墓で、亀井茲矩の手によって作られたと伝えられる。また首塚は広島県福山市の 鞆の浦 に、胴塚は岡山県高梁市の観泉寺にある。さらに 阿井渡し近く と島根県安来市の月山富田城跡、京都市北区の大徳寺玉林院、上京区の 本満寺 、左京区の 金戒光明寺黒谷墓地(金光院) や南禅寺慈氏院にも彼の供養墓や碑があり、人気の高さが窺える。法名は「幸盛院殿鹿山中的大居士」(観泉寺)、「潤林院殿大誉浄了大禅定門」(金戒光明寺金光院)など。

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