松永久秀年表 No.1
永正七(1510)年〜永禄元(1558)年
* 印は閏月を示します。
西暦和暦日付事績
1510 永正7 −− [参考] この年、久秀生まれる。出自や出生地については諸説あって不詳。山城西岡・摂津五百住はじめ加賀・筑前・阿波・豊後・近江などとする伝承が残る。
1527 大永7 3月 三好元長が足利義維・細川晴元を奉じて堺に上陸する。
1529 享禄2 −− [参考] この頃、三好元長に仕える。
1532 天文1 6/20 三好元長が細川晴元方一向一揆勢の襲撃を受け、堺の顕本寺で自刃。享年32歳。
1533 天文2 6/20 三好長慶が阿波芝生城より大坂へ入る。
1541 天文10 −− [参考] この頃から、三好長慶の祐筆として活動する。
1542 天文11 11/26 三好長慶の部将松永弾正が山城に着陣、近日乱入するとの風聞が大和に流れる。(確実な記録における久秀の初見)
1549 天文18 10月 松永甚介(長頼=弟)、細川氏綱より山城七郷を給せられる。
    12/15 本願寺証如から贈物を受ける。
1550 天文19 5/4 足利義晴が近江坂本で病没する。享年40歳。
    10月 山城小栗栖で甚介長頼・今村紀伊守(慶満)が違乱する。
    11/20 長頼が長慶の先鋒大将として近江へ攻め入り、大津に放火する。
1551 天文20 2/7 長頼とともに近江大津へ出陣、六角勢と戦う。
    3/3 長慶が京都市中に地子銭を課し、久秀はこれを厳しく取り立てる。
    3/14 長慶が伊勢貞孝亭で進士九郎賢光に襲われ負傷する。賢光はその場で自害する。
    5/5 河内守護代で長慶の岳父・遊佐長教が暗殺される。
    7/14 長頼および摂津・河内・大和衆とともに細川晴元の将三好政勝・香西元成らを京都相国寺に攻め破る。
1552 天文21 4/25 長慶とともに丹波に出陣、八上城を包囲する。
    12月 朝廷四府(左右近衛府・左右兵衛府)の駕輿丁御服座衣更の件を裁判する。
1553 天文22 3/16 山城畑で細川晴元の兵と戦い、これを破る。
    8/22 芥川孫十郎が長慶に降伏して芥川城を明け渡し、長慶・久秀が請取りに赴く。以後両者ここに居住す。
    9/3 長頼とともに丹波へ出陣、八上城に波多野与兵衛(晴通)と戦い敗れるが、退却時に三好政勝らに落とされた八木城を奪回して入る。これ以後長頼が内藤氏を嗣ぎ八木城主となる。
1554 天文23 4/12 長慶とともに丹波桑田郡へ出陣、三好政勝方の小城を攻め落とす。
1556 弘治2 1/1 芥川城で火災が起き、久秀や義興の陣所などが焼ける。
    1/11 芥川城を引き上げる。
    2/11 長慶が山城にて七箇条の掟を定め、久秀がこれを奉行する。
    4月 宇治橋の新造につき、長頼がこれを沙汰する。
    5月 久我通興家臣の山国庄入部に際し、長頼が警護のため随行する。
    5月 長頼が宇津氏討伐のため丹波に入る。
    7/10 当時の居城・摂津滝山城へ長慶を招待する。
1558 永禄1 5/9 長頼・三好長逸らとともに足利義輝・細川晴元迎撃のため吉祥寺・梅小路・七条千乗寺・六条中堂寺に布陣する。
    5/12 勧修寺晴秀を通じて京都の警護は別儀無きことを奏聞してもらうよう申請する。
    5/19 長頼・三好長逸・伊勢貞孝らと一万五千の兵を率いて市中を打廻す。
    6/8 勝軍山を奪った義輝・晴元方に対抗し、長頼・三好長逸らと如意嶽に上る。
    6/9 長頼や摂津・丹波の兵とともに義輝・晴元の兵と白川口で戦う。
    7月 京中の地子銭徴収の奉行を務める。
    11/27 長慶が将軍義輝と和睦し上洛する。
    12/18 長慶とともに京都から芥川城へ戻る。
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