山城から大和へ

戦国の梟雄と呼ばれる松永久秀ですが、その出自は不明です。久秀は三好氏の将として初め山城方面で活動しており、弘治年間には摂津滝山城を居城としていました。しかし永禄二年に大和へ侵入すると、信貴山城を本拠として本格的な活動を開始します。


山城から大和へ

 戦国期の梟雄として知られる松永久秀。彼の出生地については京都西岡とするものが多いが、他に摂津・加賀・筑前・阿波・豊後・近江などとする説も存在する。また生年についても永正七年(1510)説が主流となっているようではあるが、これも確かなものではなく、現状では一切が不明と言わざるを得ない。はっきりしていることは近畿一円に強大な勢力を有した三好長慶の下で力をつけ、後に独立した戦国大名となったということである。
 久秀が三好家の武将として、初めて確かな記録に見えるのは天文十一年(1542)十一月のこと。永正七年の生まれとする説を信ずるならば、三十三歳の時のことである。また久秀には甚介長頼という弟の存在が知られており、長頼もまた三好家の丹波方面の有能な指揮官として重用されていた。
 永禄元年(1558)までの間、久秀は三好長慶や弟長頼とともに主として丹波・山城・摂津方面で活動していた。天文二十二年〜弘治二年正月までは長慶とともに摂津芥川城(高槻市)にいたようである。弘治二年七月には摂津滝山城(神戸市)に長慶を招いており、おそらくこれが久秀最初の居城と考えられる。当時三好長慶は室町幕府十三代将軍・足利義輝や近畿管領の細川晴元、近江の六角氏などと対立し、度々戦闘を交えていた。久秀はこういった戦いへの参陣に加え、長慶が京都市中に課した地子銭を取り立てたり、また定めた掟を奉行したりと、軍政両面における長慶の「懐刀」的な役割を務めていたようである。

 天文年間の大和は国情が不安定で、天文五年(1536)六月からの木沢長政の侵入に際しては国人衆が一揆を結成してこれに立ち向かったが、長政が滅亡すると国人一揆は再び崩壊した。これを機に筒井順昭が勢力を盛り返し、混乱は収束に向かうかに見えたが、同十九年六月に順昭は二十八歳の若さで病没してしまう。幼い順慶が跡を嗣いで筒井氏の惣領となるが、大和の国情は再び混沌としつつあった。

 永禄元年十一月、長慶と将軍義輝らの間に和睦が成立し、京都周辺はひとまず平穏になった。そして翌年八月、三好長慶は河内守護代安見直政を高屋城に攻め、紀伊に逃れていた畠山高政を同城に迎えると、久秀を大和に派遣し筒井・十市氏らを攻めさせた。筒井城主・筒井藤勝(のちの順慶)は当時まだ十一歳で、松永勢の猛攻の前にかろうじて城を脱出し、椿尾上城(奈良市)へと逃れた。ここに大和における久秀と藤勝との長い戦いの幕が切って落とされたのである。久秀は信貴山城を再築してこれを本拠とし、腰を据えて大和支配に乗り出した。左の図は信貴山城の縄張り図で、相当大規模な城構えであることがおわかりいただけよう。
(「平群町遺跡分布調査概報」平群町教育委員会 1989/掲載許可済)


大和二元支配へ

 筒井氏を追い出した久秀は精力的に大和掌握へと動き、大和国人衆を次々と配下に組み入れて勢力を拡大していった。彼は永禄三年二月四日には弾正少弼に任ぜられ、翌四年には従四位下に昇り将軍足利義輝の相伴衆となるなど勢いを増すが、従四位下といえば主君三好長慶(天文二十二年三月任官)と同位である。同時に義輝から桐紋と塗輿の使用を許されているが、これらも長慶と同格の待遇であり、三好家中で相当な地位にあっただけでなく、幕府からも十分に実力を認められていたことが窺える。

 久秀は続いて奈良の眉間寺(現在は若草中学校の敷地)を破壊して多聞山城を築き、嫡子右衛門佐久通を入れた。地理的に見て信貴山城は河内・和泉(堺)方面と、多聞山城は山城方面との連絡に便利で、久秀の描いたであろう大和を中心とする広大な支配圏構築の青写真が垣間見える気がする。ともあれ、ここに信貴山城と多聞山城による本格的な大和二元支配がスタートしたのである。(写真は東から望む多聞山城の遠景)

 この城の特筆すべき点は、石垣上に久秀が考案したとされる「多聞櫓」なる建造物が設けられていたことである。これは城郭内部の防御と、非常用食糧や武器などの備蓄を兼ねた長屋形式の櫓で、「土の城」が主流だった当時としては画期的かつ最先端の設備であった。城内には家臣たちの屋敷はもとより、国人衆の人質を収容する牢屋や茶室も設けられてあり、単なる軍事拠点ではなく地域を統治する政庁として機能していた。当時多聞山城を訪れたキリスト教宣教師たちの記録に、それまで見たことがないほど白く輝く城壁や、四層の天守に驚いたことが記されており、相当な威容を備えた城であったことは間違いない。
 多聞山城は近世城郭の原型とされ、織田信長の安土城に始まる、いわゆる「織豊系城郭」の成立にも少なからず影響を及ぼしたと考えられている。小説などでは悪玉として描かれがちな久秀だが、創意工夫に長けた、非常に頭の切れる人物であったことだけは確かである。

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