三好長慶没後は義継が後を嗣ぎますが、まだ若い義継の器量では荷が重かったようです。久秀は弟長頼の戦死を境に三人衆と対立して袂を分かち、ついに三好家中は分裂しました。 |
弟長頼の戦死 将軍義輝が殺害された際、弟で鹿苑寺の僧となっていた周嵩は殺害され、末弟の覚慶は奈良興福寺一乗院に幽閉された。覚慶は七月二十八日に細川藤孝らの活躍によって一乗院からの脱出に成功、甲賀の和田惟政の館へ走る。後に彼は朝倉義景のち織田信長を頼るが、この間に還俗して足利義秋と名乗り、やがて信長の力を借りて十五代将軍義昭となる。 さて、三好三人衆と組んで義輝襲撃を画策した久秀父子だったが、程なく久秀いや松永氏にとって痛恨の極みと言える大事件が起こった。最も頼りになる弟で丹波八木城主・長頼(内藤宗勝)が戦死したのである。 丹波では荻野(赤井)・波多野氏らと三好氏の対立が長く続いていたが、天文二十二年に丹波守護代内藤国貞が八木城に戦死すると、同城を奪還した長頼が内藤氏の後を嗣いだ。甚介長頼はこれを機に内藤備前守宗勝と改め、また蓬雲軒と号した。画像は八木城跡(京都府船井郡八木町)の遠景である。 あと一歩で丹波一国支配というところまで来ていた長頼だが、永禄八年に丹波黒井城主・荻野(赤井)直正を同城に包囲中、八月二日に直正の逆襲を受け戦死してしまった。 長頼は天文十八年に細川氏綱から山科七郷を給せられた頃から記録に登場し、翌年には三好氏の先鋒大将として近江大津へ出陣、六角氏と戦っている。その後二十二年には内藤氏を嗣いで八木城主となり、弘治三年以降は氷上郡を除く丹波を支配するなど、三好氏の丹波方面司令官として大いに活躍した。 長頼の死は久秀はもちろん、三好氏にとっても大打撃であった。事実、丹波一国を失った三好氏は若い義継の手腕では立て直せず、やがて崩壊していく。義輝襲撃の際には久通と行動を共にした三好三人衆とも、これを境にして対立が目立つようになっていった。 三好三人衆との対立 三好三人衆とは山城飯岡城主・三好日向守長逸を筆頭とし、山城木津城主・三好下野守政康、山城勝竜寺城主・石成主税助友通の三人をいう。長逸は長慶の父元長の従弟で、政康は長慶の祖父長秀の弟頼澄の子とされ(異説あり)、ともに一族である。彼らは初めは個別に記録されていたが、『細川両家記』永禄八年条に 「同年乙丑初秋の比より三好御同名衆日向守。下野守。石成主税助今號三人衆と」 とあり、概ね永禄八年初秋の頃から「三人衆」と呼ばれ始めたものとみられる。 永禄八年十一月、三人衆は河内飯盛城を襲って久秀派の金山長信を殺害、義継を高屋城へ拉致して久秀との関係を絶つよう強要した。さらに阿波にいた足利義維の子義栄を擁立して久秀追討の御教書を作成させ、軍を大和へ入れた。 東山内に逼塞していた筒井氏は、この状況を見てすかさず三人衆と組む。対する久秀は旧河内勢力の畠山・遊佐・安見氏や紀伊根来衆に檄を飛ばし、もはや一回り規模の大きくなった衝突は時間の問題となっていった。 翌年二月四日、久秀は多聞山付近に三人衆勢を破り、畠山勢らは高屋城に迫った。しかし十七日には逆に和泉上之芝(上野芝)で大敗し、勢いづいた三人衆は筒井勢とともに多聞山城へと攻め寄せた。六月には三人衆の力を借りた筒井藤勝が筒井城を奪回している。 その後小競り合いが続くが、劣勢となった久秀は姿をくらました。三人衆は堺制圧に続き入京を果たして畿内の支配体制を整える一方、阿波から上洛を目指した足利義栄が摂津普門寺に入り、義継と三人衆の大願が成就するかに見えた。 しかし思わぬ事態が起こった。三人衆や阿波から兵を率いてきた篠原長房は義栄を敬い、若い義継を冷遇した。これに怒った義継は三人衆方を離れ、三好康長らと久秀方へ再び寝返ったのである。そんな中に久秀も姿を現して多聞山城へ入り、やがて両者の南都対陣を迎える。 両勢は南都を舞台に大激戦を演じ、十年十月には東大寺大仏殿が両者の兵火によって炎上した。戦況は久秀方が優勢で、三人衆はじわじわと追いつめられていき、やがては木っ端みじんに砕け散ることになる。しかし、その相手は久秀ではなかった。 先に興福寺一乗院を脱出した義秋を擁し、織田信長が上洛してきたのである。 【お断り】 現在、奈良県西和区域の月刊タウン紙「うぶすな」に松永久秀関連のコラムを連載中です。これ以下の稿も一応出来上がってはいますが、重複する部分が多々ありますので、続きの稿は新聞掲載終了後に順次UPさせていただきます。予めご了承下さい。 |