普賢寺(ふげんじ)谷〜 興戸(こうど) ここからは山城国。宇治田原の山口城を目指して、家康一行は深夜〜未明の、ここ普賢寺谷の山道を急いだ。上の写真は普賢寺谷の裏道から降りてきたところ、右の写真は興戸道である。余談だが、この興戸道の横には同志社大学がある。 さて、一般にはあまり知られていないかもしれないが、『雍州府志』に次のような記述がある。 「於山城普賢寺谷、梅雪従者斬郷導者奪其太刀之銀鐔、於茲土人蜂起遂殺梅雪於草内村西」 つまり、家康とは別行動を取った穴山梅雪の従者が、家康一行に少し遅れてここ普賢寺谷にさしかかったときに、同行の道案内人(郷導者=嚮導者)を斬り殺し、その太刀の銀製の鍔(つば)を奪った。そのため、これに怒った土着民らが蜂起し、ついに梅雪を草内村の西で襲い殺害したということである。 なお、これと同じ話が、飯岡にある梅雪の墓の横にある立て札にも、地元の伝承として記されていたことを付記させていただく。 一行はここを通過し、木津川の渡しのある草内へと急いだ。 |
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