家康最大の危機 「神君伊賀越え」考

織田信長が本能寺に消えた天正十年六月二日のこと。上方に遊んでいた徳川家康は変の報を受け、「伊賀越え」と呼ばれる生涯最大とも言える危機に直面する事は有名です。ここでは家康が通過したと思われる地の写真画像を交えてその足取りを追っていきますが、このルートには諸説あり、現在も特定されてはいません。従って、以下の内容はあくまでも管理人の私見としてご覧下さい。


神君伊賀越えマップ

「伊賀越え」とは

 天正十年六月二日早暁、京都本能寺に宿泊していた織田信長は、その重臣明智光秀に襲われ四十九年の人生を終えた(本能寺の変)。これに先立って上方を遊覧していた徳川家康は、この日信長への御礼言上のため堺の松井友閑屋敷を発って京都へ向かっていたが、河内飯盛山付近でこの変報に接した(場所には異説あり)。

 この時点で家康に同行していた面々は、軍勢もなく平服ではあったが、酒井忠次、石川数正、本多正信、本多忠勝、榊原康政、井伊万千代(直政)、天野康景、大久保忠佐・忠隣、高力清長、服部半蔵、渡辺半蔵、鳥居忠政、長田伝八郎(永井直勝)等という、徳川ファンが見れば垂涎ものの錚々たるメンバーであった(異説あり)。これに、信長から案内役として付けられた長谷川秀一(竹丸)、家康に従ったばかりの駿河江尻城主穴山梅雪、京都から急ぎ変報を届けてきた茶屋四郎次郎清延がいた。

 家康は報せを聞き驚愕、やがて「弔い合戦をしたくてもこの人数、土民の槍に掛かって果てるよりは京都知恩院に入ってそこで腹を切ろう」と一旦は死を決意するが、本多忠勝が一人反対して「信長公への報恩は、何としてでも本国へ戻り、軍勢を催して明智を誅伐すること」と力説、家康はじめ一同もこれに同意したと伝えられている。

 さて帰還についての相談となったのだが、一丸となって行動するかと思いきや、穴山梅雪主従十二名は別行動を取った。そこで家康は梅雪に別れを告げ、一路三河へと急ぎに急いだのだが、この家康の三河までの苦難の道中のことを世に「神君伊賀越え」と呼ぶ。なお、梅雪は家康一行の後で木津川にさしかかったが、草内渡し付近で土民の襲撃を受け落命することになる。

 それでは、家康一行が梅雪らと別れてから三河へ至るまでの道筋を一つのコースとして設定し、現地の風景写真などを織り交ぜてご紹介していこうと思う。スタート地点は河内飯盛山西麓である。

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