飯盛山(いいもりやま)西麓付近 上の写真は飯盛山西麓の国道170号線より撮影したもの、右の写真はJR四条畷駅付近を通る国道170号線(旧道)の様子である。かつて、この飯盛山には三好長慶が本拠を構えており、いろいろな出来事があったのだが、この稿とは関係ないのでここでは触れない。 さて家康はいつどこで本能寺の変報に接したかなのだが、家康が本能寺の変を知ったのは、大きく分けると次の三つに大別されるかと思う。 1.家康は堺の代官屋敷(松井友閑屋敷)にいてこれを知らされたとするもの。 2.家康は京都にいる信長に挨拶をするため堺を発ち、先行して京に向かっていた本多忠勝が、ここ飯盛山付近で京から駆けつけてきた茶屋四郎次郎に変を知らされ、遅れて京に向かっている家康に大急ぎで伝えに戻ったとするもの。 3.家康は京都にいる信長に挨拶をするため堺を発ち、先行して京に向かっていた本多忠勝が、河内交野・枚方辺りで京から駆けつけてきた茶屋四郎次郎に変を知らされ、急ぎ戻ってここ飯盛山付近で家康に変を告げたとするもの。 ここでは「3」の説を採用して話を進めていく。尚、この稿では、もちろんある程度の調査はしたが、家康の「伊賀越え」を追究して結論づけようとするものではないことを、繰り返しお断りしておく。 さて、変の報に接した家康は、当然の事ながら仰天した。一行は善後策を協議するが、主要街道には明智方の兵が充満していることが予想され、らちがあかない。家康は京都知恩院に行き腹を切ろうと一旦は死を決意するが、本多忠勝の反対で翻意し、本国へ戻ることに決した。ここで穴山梅雪主従は家康と同行はせず、独自の行動をとることになるのだが、これが後に明暗を分けることになっていく。 ともあれ、家康は一路本国を目指して行動を起こした。ここに、家康の人生最大の危機「伊賀越え」の幕が切って落とされたのである。 |
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