小川(おがわ)城 夜になって、ようやく家康一行は多羅尾氏の本拠小川城に到着した。城主多羅尾光俊は永正十一(1514)年生まれで、当時69歳。ちなみに光俊は、後の秀次事件に巻き込まれて一時浪人する羽目になるが、秀吉没後に家康に仕え、慶長十四(1609)年二月四日に96歳の大往生を遂げている。 さて家康は、城の向かいの小高い茶山に腰を下ろし、館の中を見下ろして油断なく様子を窺い、なかなか門の中に入ろうとはしなかった。 そこで、光俊父子は名物の干し柿や新茶を振る舞ってねぎらい、また村人は総出で赤飯を炊いて一行をもてなした。これでようやく家康も安心したかして館に入ったという。なお、このとき家康はよほど空腹だったと見え、箸も取らずに手掴みで赤飯を口にしたと伝えられている。 この城は小川郷の東にある城山の山頂にあり、当時麓には小川東城(西ノ城とも)・中ノ城があったという。天正二(1574)年の「杉谷陣屋配陣」に小川土佐守秀三・小川孫一郎貞勝・多羅尾入道道可(光俊)の三人が小川城主とされていることから、多羅尾氏を中心に三城とも機能していたものと思われる。築城時については、嘉吉三(1305)年に鶴見伊予守長実によって、またこれとは別に小川氏を名乗った富永俊盛によって築城されたとも伝えられるが、それらはいずれも麓の二城と見られ、山頂のこの城は出土品などから正安二(1300)年に鶴見伊予守定則の築いたものを天正年間に光俊が改築したものではないかとのこと。また鶴見氏と小川氏は類縁関係もあることや伝承から、甲賀地方に多い複姓を持つ一族である可能性があるらしい。つまり、同族ということである。 長享元(1487)年のいわゆる「鈎(まがり)の陣」の際に、将軍義尚方にあった鶴見成俊は六角高頼方の多羅尾光義(光俊の祖父)に城を攻め落とされ、山城東部の地侍椿井播磨守澄政を頼って奔り、和束郡杣(そま)郷に隠れた。以来ここ小川は多羅尾氏の支配下になる。そして天正年間に光俊により再築されるが、文禄四(1595)年に豊臣秀次に連座して多羅尾氏は失領、城は廃城になるという歴史を持つ。右の写真は「鈎の陣」の際に将軍義尚が安養寺から本陣を移したとされる真宝館跡の永正寺(現滋賀県栗太郡栗東町)である。 小川城で家康は一泊した。この時城内の片隅に一つの社を見つけた家康は、光俊に「何をお祀りしているのか」と尋ねたところ、「愛宕大権現にて、ご神体は将軍地蔵でございます」とのことだったので、社の前に進んで恭しく拝礼したという。そこで、光俊は「これも何かのご縁でしょう。あなた様のお顔には近々天下を治められる相が表れています。どうぞこのご神体を信仰なさりませ」と、これを家康に献上した。 家康は大いに喜び、後に江戸幕府を開いた時に、江戸城を見渡せる芝の小高い丘の上に、このご神体を祀って社を建てた。これが江戸の守護神・愛宕大権現の由来とされ、後に鉄道唱歌で歌われる愛宕山は、この遺跡である。 なお、家康が泊まったのは、小川から南へ一里半ほど行った多羅尾の居館(甲賀市多羅尾)とする説もあるが、江戸初期の小川付近古地図に朝宮〜杉山〜小川〜丸柱へ抜ける道を「神君御通路」とあることから、この稿では家康はここ小川城に泊まったものとさせていただくことにする。 左の写真は多羅尾氏居館跡の入口だが、現在ここは私有地で入口が封鎖されており(画面下部にバリケードあり)、中に入って様子を見ることが出来ないのが残念である。 翌朝、甲賀の和田八郎定教(伊賀守惟政の弟)が参上して合流、一行は御斎峠へ向かって出発した。 |
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