柳生宗厳との出会い

ここでは大和へやってきた信綱一行が宝蔵院胤栄・柳生宗厳と出会い、やがて宗厳の人品を認めた信綱が新陰流の道統を継がせるに至ったいきさつをご紹介します。


宝蔵院胤栄との出会い

 伊勢を後にした信綱一行は、まず宝蔵院胤栄を訪ねるべく大和にやって来た。胤栄は丁重に彼をもてなし、やがて立ち会い、ということになった。胤栄は槍を手に、信綱は袋韜(ふくろしない)を手に向き合った。
 この信綱の持つ「袋韜」なるものは彼の発案によるもので、竹をいくつかに裂いたものを数本束ね合わせ、なめし革で固めたものという。当時は立ち会いにおいては木刀を使用するのが一般的で、ややもすれば相手を不具の身にしたり、最悪の場合死に至らしめることも多かった。そこで信綱は門人達が打ち合って落命したりせぬよう、またそれを気にせず思い切って打ち合いが出来るよう、これを発明したと伝えられている。つまり、信綱は現代の剣道における竹刀の発明者ということになる。

 勝負はあっけなくついた。後に宝蔵院流の祖といわれ、独自に十文字鎌槍を発明したと伝えられる荒法師胤栄ほどの遣い手が、ほとんど何もできないままに信綱の袋韜に詰められたという。胤栄は聞きしにまさる上手と感服して即座に信綱に入門を請い、さらに使いの者を剣友柳生宗厳のもとへ書状を持たせて呼びに走らせた。胤栄からの書を受け取った柳生宗厳は、「運命の立ち会い」となる宝蔵院道場へと向かう。


柳生宗厳との出会い

 さて、宝蔵院道場に到着した宗厳は、早速丁寧な口調で立ち会いを所望した。しかし、返ってきた答えは宗厳をまさかと疑わせるものであった。「ではまずこの疋田文五郎と立ち会いなされ」。一瞬宗厳は耳を疑ったに違いない。「畿内随一」とその実力を評価されている自分に対して、弟子を立ち会わせるとは・・・。内心面白いはずはなかったろうが、それを怺えて宗厳は承知した。しかし・・・
 勝負はこれまたあっけなかった。宗厳と向かい合った疋田文五郎が「それは悪しゅうござる」と言うたびに一本ずつ取られ、三本中三本とも彼の完敗であったという。弟子に敗れた者がその師匠に挑むなど、当時では考えられないことであったらしいが、宗厳は信綱に立ち会いを求め、信綱も快く許したという。

 宝蔵院胤栄ひとりを傍らに、信綱と宗厳の間で三日三晩の試合が行われたという。そして試合を終えた宗厳は信綱に入門を請い、一行を柳生の郷へ招待した。信綱は請われるままに柳生の郷へ向かい、その美しい郷の佇まいが非常に気に入ったようだ。加えて柳生家は宗厳の父家厳をはじめ一族総出で歓待に尽くしたという。

 柳生の郷が気に入って居着いた信綱は、惜しげもなくその技を柳生一族に伝授した。特に宗厳には厳しく教導し、そのまま柳生の郷で永禄七(1564)年の正月を迎える。しかし戦国の世は非常であった。信綱のもとにひとつの悲報が舞い込んできた。
 それは正月七日、北条氏康が下総国府台で里見義弘・太田資正連合軍を撃破した際、信綱の子秀胤が戦死したことを知らせるものであった。信綱は柳生一族にこのことを悟られたくなかったのか、宗厳に宿題を残して柳生の地を去る。その宿題とは「無刀取り」、つまり身に寸鉄も帯びずに敵を圧倒して勝利を収める方法を考えよという難題である。宗厳はかしこまってこれを受け、信綱は疋田文五郎を柳生に留め、神後伊豆をつれて旅立っていった。


軍法軍配天下一

 信綱は関東方面へは戻らず、京へと上っていった。おそらくまずは山科言継を訪問したのではないか。そして京に滞在中に、その存在を耳にした将軍足利義輝からの招待状が届く。彼は正に天にも昇る気持ちではなかったろうか。悪く言えば、評判の実力とはいえ、片田舎の一剣豪の武芸が、将軍家の目に留まるのである。弘流を目指す彼にはこの上ない栄誉であった。おそらくこの蔭には北畠具教や山科言継らの後押しもあったことだろうが、それはともあれ、永禄七(1564)年6月18日、彼は晴舞台である京都二条御所へと参上した。

 この時の上覧演武の際、信綱の打太刀を務めたのは神後伊豆ではなく、25歳の青年剣士であった。名を丸目蔵人佐長恵という。彼は肥後相良家の家臣で、当時九州一の兵法者と言われた天草伊豆守に剣を学び、その技量は師を凌ぐと言われたほどの麒麟児である。彼は上洛時に信綱の世評を聞きつけ、立ち会いを所望したのだが、結果は宗厳らと同じであった。いとも簡単にあしらわれ、その場で入門を請うたという。信綱もこの青年のひたむきさを可愛がったようで、だからこそ神後伊豆を差し置いて上覧演武の相手に選んだのであろう。
 結果は大成功であった。感服した義輝から「兵法新陰、軍法軍配天下一」の栄えある称号を賜ったのである。そして信綱の推挙により、打太刀には選ばれなかった神後伊豆もまた、将軍義輝の兵法師範として取り立てられたのだ。この時期が信綱の人生の中でも、最も充実した時期であったろうと思われる。



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