ここでは、今回の取材中にお世話になった蓮乗寺の鈴木ご住職から拝聴したお話の一部と、ご提供いただいた資料の一部をご紹介します。 |
雑賀孫一の「気になる話」 雑賀孫一は「平井孫一」とも呼ばれるように、平井郷の「政所(まんどころ)ノ坪」と呼ばれる場所に居館を設けており、そこは通称「孫一道場」と呼ばれていたと伝えられている。 この「政所ノ坪」なる地は、現在の蓮乗寺から西へ約100m程の所にあったのだが、今ではそこには何も残っていない。鈴木ご住職のお話では、もともと蓮乗寺もその場所にあったのだが、移転して今の場所に来たとのことであった。 ところで、孫一の居館は「平井城」または「孫一道場」と呼ばれているが、これらはどうも別の建物である可能性があるらしい。ご住職のお話では、旧孫一道場は三方に小さな池があるものの、まったくの平地で、石垣などもあるにはあったらしいが、孫一の居館としてはあまりにもその規模が小さく、防御力もなさすぎるとのことであった。 私もそう思う。旧「孫一道場」というのは、付近の農民が本願寺僧の説法や講話を聞くためだけの「集会所」ではなかったか。とすると本拠の「平井城」はどこにあったのだろう。 ご住職はある場所で小さな(?)発見をされているのだが、その内容は残念ながらここには書けない。いつか我々一般が耳にする日が来るまで、楽しみにしまっておこうと思う。 鈴木ご住職自筆の「資料」より 最後に、蓮乗寺からご提供いただいた資料の一部を抜粋する。 研究者、郷土史家の皆さんは、様々な説を披露しています。たとえば、和歌浦妙見山に築城した鈴木左太夫その人が孫市である。いやいやその左太夫の三男、重秀が孫市であろう。その他いろいろな説があります。 ともあれ、伝えられる孫市は、一人ではつじつまが合いません。私方の資料では、はっきり申し上げられるのは、最初の孫市の子、豊若が後に孫市を名乗っておりますので、複数人物であることに間違いありません。 このことは、作家の司馬遼太郎さんにも申し上げ、司馬さんは「尻啖へ孫市」の中で、平井に残った孫市を小孫市という呼び方で書かれています。 いずれにしても、初代、2代目、3代目とも左太夫の3人の子、つまり、兄弟とその子が次々と孫市を名乗っていたと考えられます。その墓についても、方々にありますが、私方の墓、これには平井孫市郎藤原兼重となっておりますが、年代から言って最も活躍した孫市の墓ではなかろうかと言われています。 この墓は、以前、居城のあった政所の坪(当寺から西へ約100メートル)にあったものを、現在地へ移されたもので、上部は当寺十代目住職が建て替えたものですが、基礎の台座は往時のものそのままであります。 鈴木ご住職、本当にありがとうございました。 |