優れた射撃術を誇る鉄炮軍団を率い、石山合戦で織田信長をさんざん苦しめた雑賀衆の頭領・雑賀(さいか)孫一。しかしその存在は今もなお謎のベールに包まれています。ここでは伝説の人・雑賀孫一の実像に少し迫ってみます。 ただし、孫一にはまだまだ不明な点が多数あり、研究者の方々の間でも明確な結論は出ていません。以下の内容は今回の調査資料を基にした私なりの見解であって、史実として断定するものではないことをあらかじめお断りしておきます。 |
「雑賀孫一」という人物 写真は孫一道場・蓮乗寺にある雑賀孫一の墓 雑賀孫一は「鈴木孫一」または「平井孫一」とも呼ばれる謎の人物である。資料には「孫市」と書かれている場合も多いが、正式文書の署名時はみな「孫一」となっていることから、これを採用することにし、以下「雑賀孫一」で統一する。彼は鉄炮集団雑賀党の頭領として実在し、石山合戦などに活躍したことは間違いないのだが、さてその人物の特定はとなると難しい。鈴木佐太夫説・重朝説・重秀説などさまざまな見方があるが、どれも決定的なものではない。またこの人物、ありようは紀州雑賀荘7万石の、いわゆる地方の一土豪でしかないのだが、非常に人気がある戦国武将の一人である。なぜだろうか。 それはやはり織田信長との石山合戦での大活躍であろう。雑賀衆を率いて本願寺方に加勢し、そのすさまじい鉄炮の威力の前には当時日の出の勢いで勢力拡大中であった信長の大軍をもってしても、寺塀に指一本触れることができなかった。当サイトに今までに寄せられた孫一ファンの方々のメール等からも、やや年輩層では司馬遼太郎氏の歴史小説「尻啖え孫市」における超人的な活躍と憎めない人間性、若い世代の方々では某歴史シミュレーションゲームにおける高い戦闘能力などが、そのファンとなったきっかけであるようだ。 またほとんどの方が「雑賀孫一=鈴木重秀」と見ておられるというか、そうであってほしいと考えておられるようで、私も実はその一人であった。そこでこの機会に少し調べてみようという気になって和歌山へと足を運んだわけである。 さて、引き続き孫一に関する色々なことを書く前に、この稿を作成するに当たり、雑賀孫一の末裔である蓮乗寺の鈴木ご住職から、非常に好意的かつ多大なご協力をいただいたことに深く感謝するとともに、これから述べることの一部は、鈴木ご住職から拝聴したお話の内容と、ご提供いただいた資料を中心に作成したことも併記させていただく次第である。 孫一と石山合戦 孫一と三度の紀州攻め 孫一なる人物の正体 仮説・雑賀孫一の生涯 孫一番外編 |