孫一なる人物の正体

やはり一番気になるのは「雑賀孫一」なる人物の正体でしょう。もちろんはっきり断定することは出来ませんが、ここでは資料中の記述からの推測も含め、伝説の人・雑賀孫一の正体に少し迫ってみます。


「雑賀孫一」の正体

 さて、孫一とは何者なのか? そこで孫一に関連した記述のある資料を少し見てみることにしよう。とりあえず「大意」を併記したが、現代語訳本などがなく私なりの解釈で書いたため、多少の文法的なミスがあってもご寛容いただきたい。

☆『ますをのすすき 海士郡(二)』

「本姓は鈴木孫市、雑賀荘鈴木左太夫第三男也、孫市は海士郡北山の麓平井村を領す(検地弐百石許今高五、六百石)。父鈴木左太夫は、天正中藤堂氏がために、那賀郡粉河城にて自殺す。雑賀孫市は羽柴家衰えて後は関東に仕へ奉り、所々勲功あり、御家人と成、子孫相続き、今水府に於て仕へ奉り、三千石を給ふ」
(大意:本姓は鈴木孫市、雑賀荘鈴木左太夫の三男。孫市は海士郡北山の麓平井村を領す。父の左太夫は天正年間に藤堂高虎のため、那賀郡粉河城にて自殺。豊臣家が衰えた後は徳川家に仕え、少々勲功があって家臣となり、子孫も続き、今は水戸藩に仕えて三千石をもらっている)

☆『紀伊国地士武功覚書』

「城主鈴木左太夫、藤堂高虎公の謀事にて粉河へ呼寄切腹させらる、よって雑賀没落」

☆『七郡地士名寄』

「孫市の父佐太夫に三男あり、総領は佐太夫、次男三吉、三男孫市」
「雑賀荘鈴木孫市は、水戸様之御家人と成、紀州の平井谷に居住、故に平井孫市共云、鈴木左太夫末子の由」

(大意:孫一は水戸頼房の家来となり、紀州平井谷に住んでいたことから平井孫一ともいう。鈴木佐太夫の末子ということだ)

 などとあり、また天正年間の泉州と織田信長の関係では

☆『大阪府全志 第五巻』

「天正年間本願寺門徒の摂州石山城に拠りて織田信長と争ふや、紀州の雑賀孫一郎・同入道三緘・土橋平次・的場源七郎・渡辺藤左衛門・岡崎三郎太夫及び根来岩室坊清祐等は、壱万余騎を率ゐて当国に入り、当城及び畠中・貝塚の要塞に拠りて之に応援し、以て信長を悩ませしかば、信長は天正五年二月雑賀征伐の途に就きて諸城に迫りければ、同月十六日悉く潰走せり」
(大意:天正年間に本願寺門徒が石山本願寺にこもって信長と争うと、紀州の雑賀孫一(以下略)らは、一万余騎を率いて和泉に入り、石山本山や畠中・貝塚砦にたてこもって信長を悩ませたので、信長は天正五年二月に雑賀征伐に出陣、これらの城に迫ったので十六日には皆逃げ出してしまった)

 とある。さらに秀吉の1585年の紀州攻めの際には

☆『太田城由来并郷士由緒記』(太田家文書)

「三月廿五日、太田城へ為御使、鈴木孫一案内にて中村孫平次を御越被成候、其旨は城内之者とも秀吉公へ降参仕候様にとの上意也、城士とも御返事申上候は、去年家康公へ御味方申泉州表にて働申事誰志らぬ者無御座候、殊に御取詰及難義候節ニ至り、降参仕候心底少も無御座候、数ならぬ我々に候得とも二心の嘲弄恥後名候、早く御馬を取向られ、寸志乃働仕、城内にて切腹可仕候と申たり」
(大意:三月二十五日に太田城へ使者として孫一の案内で中村一氏がやって来た。内容は城内の者は秀吉へ降参せよとのことだった。城兵達の返事は「去年家康公へ味方して泉州で働いたことは誰知らぬ者は無いのに、せっぱ詰まった今に及んで降参する気など少しもない。たとえ力及ばずとも二心の嘲りを受けるのは後名の恥である。早く攻めてきなさい、少しばかりお相手してから、城内で切腹いたしましょう」ということであった)

☆『紀伊続風土記』

「此の時顕如上人貝塚に移住しけれは、太閤人をして紀州は上人因縁の国なれは、降参の儀を勧められよといはしむ、上人即鈴木孫市にかくといひ含、中村孫平次と共に此事を城中に諭さしむれとも、城兵従はす」
(大意:この時顕如上人は貝塚に移住していたので、秀吉は使いを送り「紀州は上人ゆかりの国であるから、降参するよう勧めなさい」と言わせた。顕如はこれを受けて孫一にそのように言い含め、中村一氏とともに太田城へ行かせて説得に当たったのだが、城兵たちはこれに従わなかった)

 とある。孫一の複雑な動きが垣間見えて興味深い。つまり、この直後に行われた紀州攻めの際には、孫一は秀吉陣営にいたのである。この他にも

※「1585年、藤堂高虎に謀られて殺された」
※「関ヶ原の際に西軍の鉄炮頭となり伏見城攻めに参加、城将・鳥井元忠の首を挙げた」
※「関ヶ原の敗戦により浪人し、一時仙台伊達家に寄食」


 などという説もある。

 ところで、これはかなり重要なことなのだが、冒頭ページの写真にある「雑賀孫一の墓」の東面(正面向かって右側面)には

「天保三年壬辰五月上旬改 天正十七年己丑五月二日」

 と刻まれている。つまり孫一の没年は天正十七(1589)年5月2日となっているのだが、もしこれが正しいとすると、1589年に死んだはずの孫一が、「水戸様之御家人と成」れるはずがなく、明らかに矛盾していることがわかる。孫一なる人物が誰であれ、1589年5月2日には「孫一を名乗った人物」が一人亡くなっているのである。

 小説「雑賀孫市」の著者二宮隆雄氏は、その小説の中で孫一を信長と同年の1534年生まれと推定しておられるが、活躍した年代を考えると、まず妥当なところだと思う。氏は歿年のことには言及しておられないが、もし上記1589年に歿したとすると、享年56歳ということになり、ごく自然に受け止めることが出来る。
 さらにこの仮定で孫一が関ヶ原で活躍したとすると67歳ということになり、私にはこれは少し考えにくく、仮に重秀が孫一だとすると、兄の重朝はそれ以上の年齢ということになるので、よけいに現実離れしてくる。

 ということで、これらのことを総合して考えてみると、重秀=孫一は成り立つことはあっても、孫一=重秀は成り立たないことがわかる。上記資料からもわかる通り、「雑賀孫一」は、明らかに複数人物の呼称なのである。そして今回調査した資料中には「重秀」の名はどこにも見あたらず、代わりに「重次」という名が見られたが、この重次なる人物は上でも少し触れたように、「常山紀談」によると関ヶ原の合戦時に西軍に加担して伏見城の戦いで鳥井元忠の首を挙げている。孫一のその後も含めてこの話は美談として取り上げられているので、抜粋してご紹介することにする。

☆『常山紀談』

「元忠戦ひ疲れて玄関に腰をかけ、息つぐ処に雑賀孫市重次、死骸を踏越てすゝみよれば、「吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ」とて物具脱で腹を切たりしかば、雑賀其首を取りたり。 (中略) 雑賀孫市、後水戸中納言家に仕へたりしが、ある時中だちを以て鳥居忠政のもとに云送りけるは、「重次むかし伏見の城にて、元忠の御最期に参りあひ、其時の御物具吾家に取伝へ候ひぬ。先考の御形見にて候。御覧ぜん為返し参らせ度こそ候へ」といふ。忠政悦んで、「なき父が形見是に過ぐべからず。一目見ばや」と答ふ。重次自ら携てゆき向ふ。忠政門外に出迎へ重次を奥の間に招じ、「亡父に再対面の心地す」とて涙を流し、甲冑・太刀・刀、おし板の上にかき居て、是を拝し、さて今日重次を饗せし有様誠に美尽せり。其翌日重次の方に使を立、昨日の見参を謝す。 また「重次の御志によりて父が最期に帯せし物具再び見候事、返すゞも悦入存候ひぬ。忠政が家に伝へし父が形見に見るべき物もすくなからず。見苦しうは候へども、此物具重次の家にとゞめて御武名を子孫に伝へられん事、弓箭の道にはよき御遺戒にもや候べき」とて、甲冑・太刀・かたな、ことゞく返し遣はす。それより年毎に、冬綿厚く入たる衣五領、使者にもたせてはるゞと水戸に贈り遣はし音信を通ずる事、忠政が一期のほど終におこたらず。水戸公此由聞し召、大に感じ給ひ、鳥居が使者の来るべき前、道梁を修理せさせ、重次に客儲すべき魚鳥やうの物賜ひけるとぞ」
(巻十四の七 第三百十六話 「伏見落城の事附鳥居忠政、雑賀孫市を饗れし事」より抜粋)


 読解が比較的容易な文なので大意は略させていただくが、良い話である。孫一が鳥居忠政や水戸頼房から好意的に扱われていたことが分かる。また蓮乗寺には「鈴木重次守本尊略縁起」なる資料も残されており、鈴木ご住職のお話では「初代孫一」の子・幼名豊若が元服後に「雑賀孫一」を名乗っているとのことなので、私は関ヶ原以降は「雑賀孫一」はこの豊若が称していたと考えたい。つまり、上記雑賀孫一重次とは豊若の事を指すのではないか。ただし、これは単なる私個人の推論に過ぎないのだが。

 さて私なりの結論だが、「最初の孫一」は佐太夫ではなく、彼の子の誰かを指していたことは間違いないと思う。そしてその子が二代目孫一を名乗った可能性が極めて高い。しかし、「重秀」の名が見つからなかったからには、これ以上の結論は言えない。もう少し調べてみたいのだが、私などのレベルではこれ以上はもう無理かも知れない。



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