仮説・雑賀孫一の生涯

さて今までの資料を基に、少し強引ではありますが、鈴木重秀が雑賀孫一であったと仮定して、ひとつストーリーを作ってみました。結局は推測の域を出ず、何の史実上の確証もないことを最初にご承知いただいた上でご覧下さい。


仮説・雑賀孫一の生涯

 まず、父は佐太夫、長兄は重朝、次兄は氏名不詳(通称三吉)、三男で末子である重秀が「雑賀孫一」であったと仮定する。

 佐太夫は家の存続を考え、次兄の三吉を本願寺に入れて出家させ、妙見山にある雑賀城に兄の重朝とともに住み、孫一重秀は平井政所の坪に住んでいた。佐太夫は幼い頃から孫一重秀に武術や射撃術を習わせ、めきめき頭角を現した重秀は、やがて傭兵射撃隊長として各地の大名から招かれ各地で活躍、その度に莫大な報酬を雑賀の地に持ち帰る。これでますます佐太夫は鉄炮と火薬の増強に努めることが出来た。

 1570年、三好家に雇われて出陣していたところ、本願寺がついに決起、孫一は本願寺に合流して信長と戦う。このころ老齢の父佐太夫は隠居し、鈴木一族は兄重朝の要望もあり、人望と実力のある孫一重秀が頭領となって率いることになった。7年にわたり本願寺に加担して信長を苦しめた孫一重秀であったが、1577年信長の雑賀攻めにあい、雑賀城に立てこもって奮戦するが自領の平井城が落とされたため、一族と相談して降伏する。
 しかしその直後に、早くから信長に加担していた土橋氏との仲が険悪となり、信長は佐久間信盛に土橋氏の援軍を命じて孫一を攻めさせるが失敗、ここは孫一がしのぎ切る。しかし、1582年5月、突如として鷺森道場に攻め寄せた丹羽長秀勢に不意を突かれて大苦戦、満身創痍となって防戦に務めるが、明日はもはや落城という絶望感を覚えたときに本能寺の変により信長がこの世から消えた。

 覇権は秀吉に移り、一時根来衆とともに家康に加担したことが秀吉の怒りを買い、紀州殲滅戦へとなるが、直前に本願寺顕如のとりなしで秀吉に降伏して許され、太田城攻めの案内役を務める。しかし説得に失敗、根来衆と雑賀衆は結局秀吉軍に攻められ全滅する。戦後佐太夫が熱心な真宗信者でもあり、まだその人望勢力も大きかったことから、秀吉は今後のためにこれをまず除いておこうと考え、藤堂高虎に詭計を授けて粉河城に呼び出して切腹させる。
 後に父の死の真相を知った孫一重秀は激怒するが、雑賀衆が壊滅したため秀吉相手にはもう歯が立たず、世の中が嫌になって隠居を決意する。そして、的場源四郎の口利きで平井からすでに移り住んでいた中津城で余生を送り(このころ平井には雑賀孫六が秀吉から二千石を与えられている)、後を息子の豊若改め二代目雑賀孫一に託す。孫一重秀は4年後の1589年に病を得て亡くなり、代わりに二代目孫一が秀吉に気に入られて鉄炮頭を命ぜられるようになる。

 時は流れ、秀吉も逝った1600年、二代目孫一は西軍鉄炮頭として伏見城攻めに参加、城将鳥居元忠を討ち取る大功を挙げたが、西軍が敗れたため失領して浪人、やがて噂を聞いた伊達家に客分として招かれる。ここで二代目孫一は鉄炮師範となり、併せて父重秀直伝の騎馬鉄炮術を片倉家に伝授する。やがて伊達政宗の取りなしで徳川家康に目通りが許され、その高い射撃術を買った家康は孫一を召し抱え、水戸頼房付けにする。
 そして水戸の地に定住するようになった二代目孫一はここで子孫らに恵まれ、水戸徳川家の一家臣として江戸時代を過ごしてゆく・・・。



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