孫一と石山合戦

優れた射撃術を誇る鉄炮軍団を率い、織田信長をさんざん苦しめた雑賀孫一。彼が歴史上で華々しく活躍するのは、やはり織田信長と本願寺顕如の間で十年にわたって繰り広げられた石山合戦でしょう。ここではその石山合戦の発端となった銃撃戦、「野田・福島の戦い」をご紹介します。


野田・福島の戦い

 写真は石山本願寺跡に建てられた現在の大阪城
現在の大阪城  孫一は終始一貫して信長に対抗したように思われがちであるが、実はそうではない。彼はその「傭兵活動」の一環として、本願寺の決起前には織田方に加勢したこともあるのである。事実1569年に信長が三好党を攻めて阿波に追い払っているが、このとき孫一ら雑賀衆は信長軍の中にいたのである。しかしこれは信長に臣従するという性質のものではなく、あくまで「報酬に対して、それに見合うだけの人数と働き」であった。
 1570年当時、信長は八方に敵を抱えており、中でも前年に信長に京の地を追われ、阿波で逼塞していた三好一党が、一向一揆と手を結んで反旗を翻し摂津に上陸侵攻して来るという挙に出たため、これを押さえるべく天王寺に出陣した。同9月9日、総攻撃をかけるべく天満ノ森に陣を移したのだが、このとき三好方の鉄炮隊を率いていたのが、前年には信長軍にいた孫一なのである。

 ここで9月12日から両軍数千挺の鉄炮による激しい銃撃戦が行われるのだが、この時の織田方の主力銃隊は根来衆・雑賀衆・湯河衆だった。つまり、この時点で雑賀衆も二つに分かれていたのである。推測の域を出ないが、たぶん織田方に加わっていた雑賀衆というのは、根来衆とも比較的近い雑賀三緘衆であろうと思われる。『信長公記』にも次のような記述があるので引用する。

 「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万ばかり罷立ち、遠里小野・住吉・天王寺に陣取り候。鉄炮三千挺これある由候。毎日参陣候て攻められ候。御敵身方の鉄炮誠に日夜天地も響くばかりに候」

 さて、注意していただきたいのは、このとき孫一は最初から本願寺方に属して信長と戦ったわけではなく、三好党に雇われた一軍団の長として信長を迎え撃っているという点である。しかし話が少しややこしくなるのは、ここで「野田・福島が陥落すれば寺の存続の危機」と、本願寺顕如がついに立ち上がり、9月12日夜に門徒へ決起を促し、織田軍に突如として横あいから攻撃を仕掛けたからである。これには信長も驚いたようで、『細川両家記』には「信長方仰天」とある。
 本願寺はかねてより信長から石山の地に築城したいということで「譲渡」を求められていた。いや、信長のことだから高飛車に本願寺に「明け渡し(立ち退き)」を「命じた」のかもしれない。もちろん顕如がはいそうですかと聞き入れるはずはなく、いずれにせよ本願寺と信長は衝突する運命にあったのである。

 この戦いでおそらく孫一は本願寺に合流して織田方と戦ったと思われる。とはいえ野田・福島の砦はこのまま戦が長引けば、圧倒的な軍事力の差から陥落は必至であろうと思われたが、織田方では佐々成政が負傷、野村越中が討死という結果を残したまま退陣する。というのは、浅井・朝倉・六角氏らが本願寺決起に呼応して信長の将森可成の守備する近江宇佐山城を攻め落とし(可成は戦死)京へと動き出したため、信長はこれらに向け馬首を返さざるを得なかったのである。ともあれ、これ以後十年以上に及ぶ、信長と本願寺間の石山合戦が始まった。



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