孫一の存在とその鉄炮隊の活躍に業を煮やした織田信長は1577年、大挙して二度にわたり紀州雑賀攻めを行いますが、孫一は何とか持ちこたえます。しかし、これで終わったわけではありませんでした。1582年5月、あまり知られざる三度目の紀州攻めがあったのです。絶体絶命の危機に陥った孫一は・・・。 |
第一次紀州攻め 本願寺との全面戦争に突入した信長は、各地の一向一揆のゲリラ戦に悩まされながらも各個撃破で臨んだ。そして1574年9月には長島願証寺の一揆を壊滅させ、翌年9月には越前・加賀一向一揆を掃討し、やがてその矛先は孫一らの紀州へと向かってきた。このとき紀州は一枚岩ではなく、根来衆をはじめ雑賀三緘衆や太田党は信長方に加担しており、結局は紀州攻めというより、孫一攻めと呼んだ方が適切かも知れない。 1577年2月13日、信長は十万もの大軍を率いて出陣、22日に泉州信達(しんだち)で軍を浜手と山手の二手に分け、根来衆や太田党の手引きで紀州雑賀へと攻めかかった。浜手の将は滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂谷頼隆・細川藤孝・筒井順慶。山手の将は佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政・別所長治・別所重宗という錚々たるメンバーである。 浜手軍は雑賀衆の抵抗を受けながらも孝子峠から紀ノ川右岸の中野城へと進み、山手軍は風吹峠から南下して紀ノ川を渡り、本拠雑賀城の東側、小雑賀川(和歌川)をはさんで陣を敷いたのだが、ここで雑賀勢により大打撃を受ける。これは有名な場面だが、雑賀城の孫一らは潮の干満なども最大限に利用し、小雑賀川の底に無数の瓶を埋めて敵の来襲を待っていた。 そうとは知らない信長勢は堀秀政が先陣となって数を頼みに殺到、やがて川底の瓶に足を取られてもがいていたところへ後続兵が次々と押し寄せ、パニック状態となった。ここへ孫一指揮する雑賀より抜きの鉄炮隊から一斉射撃を見舞われたのだからたまらない。小さな川一つ渡ることも出来ず多数の死傷者を出して退却、戦いは膠着状態となった。 しかし、あまりにも兵力差がありすぎ、浜手軍に中野城を落とされたことから、孫一は一族相談の上で誓詞を認めて降伏を申し出た。これとて本来なら信長の性格からして認められようはずもなく、普通なら孫一や佐太夫の首は取られていたであろう。しかし、信長もそう長く紀州にいられない事情があった。毛利軍の東進である。紀州で手間取っていると事情がどうなるかわからないこともあり、信長は孫一の降伏を赦免するという形を取り、退陣していった。 第二次紀州攻め さて、一旦は信長に降参した孫一であったが、その年の夏になって蓄積していた雑賀三緘衆に対しての不満が爆発した。8月16日、井の松原にて激戦が繰り広げられ、信長も佐久間信盛に援軍を命じたのだが失敗、このときは孫一が勝っている。 どうも孫一らと三緘衆・太田党はウマが合わなかったようだ。次のような資料がある。 ☆『太田総光寺中古縁起』 「天正の始の頃、雑賀と宮郷との領間に三十六ケの塩浜并に三日月の芝とて二カ所の地境ありしを、雑賀の庄へ奪ひ取て領せんとす、宮郷の農士等是を奪れましとて卒に諍論となる、雑賀の郷士等大軍を卒して宮郷に押寄す、宮郷は太田城を構へて根来寺の法師を頼既に合戦す」 (大意:天正の初め頃、雑賀と宮郷との領地間に三十六箇所の塩浜、三日月の芝という二ヶ所の地境があったが、雑賀側がこれを奪って領しようとしたため、宮郷の農士たちはこれを奪われてなるものかと、争いになった。雑賀勢は大軍で宮郷に押し寄せたため、宮郷は太田城を中心に構え、根来寺の法師を頼って合戦に及んだ) この資料に見られる通り、孫一らと根来衆・三緘衆は領地の境界をめぐって仲違いする事が多く(他の資料にも同様の記述あり)、一般に「雑賀衆」という場合、本来の語義からは外れるが、一面では雑賀荘・十ヶ郷のみを指すと考えても良いようだ。それほどいわゆる「雑賀衆」は仲間割れを起こしていたのである。 第三次紀州攻め 信長はどうも孫一が気に入らないらしく、1582年5月、息子の信孝に命じて極秘裏に三度目の紀州雑賀攻めを行った。信孝は同年4月までは高野山攻めに出陣していたが、紀州背山城に在陣していたところを呼び戻され、一万四千の軍勢(一説には五千)を堺に集結させ、丹羽長秀に三千を与えて鷺宮道場を急襲させたとも、信孝自身が兵を率いて鷺宮道場へ攻め寄せたとも言われている。 不意を突かれた顕如上人と孫一らはあわてたが、必死の防戦をする。孫一はじめ雑賀孫六・的場源四郎・三井遊雲軒・島(坂井)与四郎・関掃部守らが満身創痍となって支えるが、味方はわずか二百という小勢、その上激戦の中で孫一は右肩先と左手首に斬りつけられる。その日は何とか持ちこたえて道場に戻ってきた孫一だったが、斬られたはずの肩や手首に痛みもない。そこで肌身に付けていた御本尊(阿弥陀如来尊像の巻物)を取り出してみたところ、その肩先と手首にすーっと一筋の血が流れたという。 そこで孫一はこれを「守本尊孫市身代り像」として祀ったのが、平井蓮乗寺のはじまりとされている。なお、この像は今でも一筋の血が付いたまま、蓮乗寺に残っている(!)。 とりあえず今日の攻撃はしのいだものの、明日はもはや落城かという6月2日夜、顕如上人は覚悟を決め、皆を集めてこう言った。 「明日信長勢が門前近く攻め寄らば、火を放って御真影を焼き奉るべし。私もお供申します。皆さんには、これまで身命、妻子を捨て、よく助けてくれた事、誠にかたじけない。今宵は今生の名残、残る物語りは安養浄土でゆるゆる語り合うべく、再会を期しましょう」 さて、ここで日付に注目いただきたい。上記顕如上人の法話に皆が感涙にくれていた天正十(1582)年6月2日。そう、この日の早暁には信長はもはやこの世の人ではなくなっていた。この報せは間もなく道場にも伝わり、翌3日早朝には敵勢は蒼惶として退陣していった。孫一は喜びのあまり傷ついた足を引きずって立ち上がり、片足を上げながら日の丸の扇をかざして踊り狂った(一説には踊ったのは雑賀孫六とある)という。これが「雑賀踊り」の発祥とされ、後に「徳川和歌祭」に組み入れられて伝わり、今も5月17日の和歌祭りにはこれを踊るという。 ところで、この戦いは一般書籍ではまず取り上げられておらず、ほとんど目にすることはないのだが、他にも『根来焼討太田責細記』中の紀州の勇将・的場源四郎を紹介している部分に、以下のような記述を見つけたので書く。 ☆『根来焼討太田責細記』 「源四郎ワ万武不当ノ勇士ニシテ正直也、光佐上人ニ従テ勇ヲ励シ、且鷲森ニ移給ヒテ信長ノ勢是ヲ攻ニ味方シ奉ニ、信長、明智ガ為ニ討レシ由告ケレバ、惣軍陣ヲハロフテ帰京シヌ、是ニ依テ光佐上人帰洛ノ節立寄給ヒ一礼シテ黄金三枚・時服三重・信国ノ刀一腰・自筆ノ名号ヲ給フ」 (大意:源四郎は万夫不当の勇士でしかも正直である。顕如上人に従って勇をふるい、かつ鷺森に移られて信長勢が攻め寄せたときにもお味方したのだが、信長が明智光秀の為に討たれた事を敵に告げたところ、みな陣を払って帰京した。これにより顕如上人が帰洛するときに的場のもとに立ち寄られ、一礼して黄金三枚・時服三重・信国の名刀一振りと自筆の名号を与えられた) この資料は軍記物などではなく、秀吉の紀州攻めの様子を中心に、出来事を非常に細かく書き留めた「記録書」である。他の記述部分とも併せて考えて、攻め寄せた武将が誰かは別として、まずこの戦いが行われたことは事実と見て良いと思う。 それはともあれ、こうして孫一は難を逃れたのだが、喜びはむしろ顕如上人の方が大きかったかも知れない。ほどなく上人が泉州の門徒達に出した書簡にこうある。 「信長滅亡によって、国々静謐にまかりなり、重畳に候」 |