根来衆の終焉〜秀吉の根来攻め〜

すさまじいまでの威力を発揮して戦国の華となった紀州の鉄炮軍団、根来衆と雑賀衆。しかし強大な権力には逆らえず、ついに1585年、秀吉の根来攻め・太田城水攻めによりその終焉を迎えます。ここでは根来衆の終焉となった、秀吉の「根来攻め」をご紹介します。


根来寺炎上・根来衆滅亡

 信長には好意的であった根来衆も、いわばその権力の継承者であるはずの秀吉には、なぜか反抗的な態度をとる。しかしこれには理由があった。根来寺は、紀伊のみならず河内や和泉の一部にもその勢力を及ぼしていたのだが、秀吉がこれらの利権を認めず取り上げようとしたためである。

 さらに、天正十二(1584)年3月に徳川家康・織田信雄との間で行われた小牧の戦いの直前には、家康の政治工作によって太田党を中心とした根来衆・雑賀衆が家康に加担しており、これが紀州征伐の一番大きな原因だったかもしれない。このいきさつは『太田総光寺中古縁起』に詳しいので引用する。この資料は元和二(1617)年に完成したもので、非常に精細かつ正確な資料だと思われる。

☆『太田総光寺中古縁起』

「同十二年甲甲、徳川家康公小牧山にて豊臣氏と御合戦あり、此時井上主計頭紀州へ御下向有て、先当寺に着き、檀徒太田左近宗正・(以下人名略)等会合せしめて、即根来・雑賀・宮郷・中郷・南郷・岸の庄是等の地士共御味方に参り候へとの御下知状を住持永意読聞せけれハ、檀徒領掌して太田より残る五組へ回文せしめて、御味方決定せしむるに、何れも同心して吉田右門・(以下人名略)是等都合三十六人、根来法師ハ泉式を先として五人、雙方四十一人日前宮へ会合して一味同心し、誓約不変の為に血判の一紙を認めて是を小牧へ奉らんとする(後略)」

 興味深いのは、この縁起は紀州側の資料だが、小牧・長久手の合戦があくまで「秀吉と家康の間」のものとして捉えられているということである。これは他の資料もそうで、本来の一方の主役は家康ではなく信雄のはずなのだが、紀州側では家康が主役と見ているのである。つまり、家康の手がこれ以前から太田党を含めて根来衆などにも伸びていたと考えられ、家康の高度な政治工作の一端をのぞき見ることが出来るかと思う。またこの資料には雑賀孫一の名はないが、『紀伊続風土記』の項には「栗村 土橋平次、平井村 鈴木孫一」の署名が見られる。孫一はこの連署状に署名したのだろうか。直後に和睦の案内役として太田城に向かっているのだが・・・。

 そして天正十三(1585)年3月10日、秀吉は紀州征伐に向かった。「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、十万の大軍が紀州勢に攻めかかった。部隊編成は以下の通り(出典は『根来焼討太田責細記』、侍大将は主だった者のみの記載とした)である。

 先陣:中村一氏(三千五百)、二備:筒井定次(五千余・中に島左近の名も見える)、三備:堀秀政(一万余)、高山右近(一万)、桑山重晴(五千)、細川藤孝(二千余)、蜂谷頼隆(三千余)、堀尾吉晴(三千余)、浅野長政(五千余)、増田長盛(二千余)、豊臣秀次(一万余)、豊臣秀長(一万余)、浮田(宇喜多)秀家(一万五千)、豊臣秀吉(二万余)

 総勢十万三千五百余人という大軍である。さらに小早川隆景宛に命令を出して毛利水軍の総出動を要求し、小西行長を総大将(船奉行)に、九鬼嘉隆・仙石秀久らとともに岸和田から雑賀先方面へ向かわせているのである。これでは紀州勢がいくら頑張ったところで、勝ち目はない。

当時の泉州の要害略図  紀州勢の前線の城(砦)は、泉州の千石堀・積善寺(しゃくぜんじ)・沢の三ヶ所である。ただし、積善寺城・沢城については明確な所在地が不明のため、『大阪府全志』の記述から場所を推定して記した。

「当国第一ノ堅城」という千石堀には根来的一坊が立てこもっており、秀吉勢は豊臣秀次・筒井定次・堀秀政・中村一氏らが攻めかかり、「根来一の荒法師」的一坊と大激戦の末に筒井勢が放った火矢で火災が起き、火薬庫に引火して大爆発を起こし、城兵千六百人が吹き飛んで落城した。余談だが、この記述中に若き日の島左近勝猛の活躍が描かれているので、いつかまた機会があればご紹介したいと思う。激闘の末に的一坊を討ち取ったのは、島左近なのである。
 積善寺砦には根来太一坊が立てこもっていたが、高山右近・中川秀政(清秀の子)が猛攻を加えたため、もはやこれまでと城内から雑賀七郎が討って出、激闘の末に中川秀成(秀政の弟)に討たれた。そして3月22日、羽柴秀長の扱いで城兵の助命を条件に開城、高山右近が城を収めた。
 沢砦には紀州の勇将・的場源四郎がいた。激戦が行われたが、さすがにここは容易には抜けなかった。しかし次第に城兵も減り防戦が不可能と見るや、源四郎は重囲を突破して本国紀州へと落ちて行った。そして3月23日、これまた羽柴秀長の扱いで城兵の助命と引き替えに開城したという(秀長が城中に宛てた書状が現存する)。

 これら前線を突破した秀吉勢は、怒濤の勢いで根来寺に攻め込んだ。迎え撃つ根来勢の先鋒は雑賀の猛将・太田左近。わずか百五十の鉄炮しかなかったが、さすがに孫一に引けを取らない雑賀の頭領、これで二万の豊臣秀長勢を一旦は敗走させるのである。しかし、あまりにも兵数が違うため、左近は程なく雑賀太田城へと退却していく。

 残るは本山、根来寺。津田監物はこの大軍を前に怖れる色もなく、より抜きの鉄炮衆五百で迎え撃った。ここから津田監物討死にまでの間を、資料(『根来焼討太田責細記』)は非常に詳細に記しているが、文量が膨大なので大筋だけを書く。監物は最後の最後まで抵抗し、寺に敵兵が乱入して白兵戦となっても戦い抜く。そしてついに増田長盛に討たれるのである。この長盛が監物を討ち取った場面が小気味よいので引用する。

 「増田ハ津田ヲ一刀ニ討倒シ、西谷延命院ト戦ヒ是モ同ク切倒ス」

 時に天正十三(1585)年3月24日(『太閤記』には3月21日とあるが)。主将の討たれた根来寺にもう余力はなく、2・3の堂宇を除いてほとんどが炎上、焼失した。この炎と共に、戦国をその優れた鉄炮軍団をもって駆け抜けた傭兵集団・根来衆も滅び去ったのである。泉識坊など一部の僧兵大将はかろうじて脱出し、土佐へ落ちて行ったという。
 わずかにこの戦火から焼け残った根来寺大塔は、現在国宝に指定され、徳川期に再興された他の伽藍と共に、根来の地にその姿を当時のまま伝えている。そしてその白壁には、当時の激しい銃撃戦の弾痕が今もなお生々しく残っている。



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