鉄炮の伝来と伝播

1543年に種子島に伝わった、たった2挺の鉄炮が戦国期の合戦をやがて大きく様変わりさせました。ここでは鉄炮伝来時の状況と、それをいち早く戦力の中心に取り入れて活躍した紀伊の土豪達について少しご紹介します。


鉄炮伝来

 写真は紀伊国の中心・和歌山城
和歌山城  戦国中期までは、力量に優れた侍大将同士が「やあやあ、我こそは・・・」と大音に名乗りを上げ、華々しい一騎討ちを行うといったような戦いが多かったようだ。しかし鉄炮という新兵器の出現でそれは大きく変わった。ご存じのように世上に名高い「長篠合戦」では、天下無敵の武田騎馬軍団が織田・徳川連合軍の三千挺の鉄炮隊の前に、無謀な突撃を繰り返して全滅に近い敗北を喫してしまう。
 また織田信長の全盛時と言っても良い時期に行われた石山合戦では、その織田軍が本願寺の鉄炮隊の前には塀ひとつ崩すことさえ出来なかったのである。ではその「鉄炮」なるもの、どのように我国に伝わってきたのだろうか。

 天文12(1543)年8月25日、大隅種子島の南端・西之村の小浦という所に、100人ほどの南蛮(ポルトガル)商人の乗った一隻の船が強風により漂着した。代官より報せを受けた島主の種子島時堯(ときたか)はこれを赤尾木湊に曳航させ船主と会ったところ、乗組員の中にいた商人が見慣れぬ鉄の棒(鉄炮)を持っているのを見つけた。
 言葉は通じなかったが、これが欲しくなった時堯は乗組員の中に五峰という中国人がいたことから彼を通訳として筆談で話を進め、高価にもかかわらず二挺の鉄砲を購入したという。ともあれ、こうして二挺の鉄砲が種子島時堯の手に入り、彼はこれを「稀世の珍宝」として家宝にしたという。これが鉄炮伝来の瞬間であった。


鉄炮の伝播

 当然の事ながら種子島時尭は自領で鉄砲の複製を造ろうと考え、刀鍛冶・八板金兵衛清定と篠川小四郎にその製法や火薬調合法を学ばせ、ついに1545年複製に成功した。これが国産の鉄炮第一号である。
 そしてこれをいち早く聞きつけて行動に移した二人の人物がいた。一人は後述する紀州那賀郡小倉荘領主の津田監物算長(かずなが)、もう一人は堺の商人橘屋又三郎である。津田監物は直ちに種子島に渡って二挺のうちの一挺を入手、また橘屋又三郎は自身現地の八板金兵衛のもとに弟子入りしてその製法技術を持ち帰ったという。つまり鉄炮は、本州ではまず紀州根来と泉州堺に伝播したわけである。

 根来に鉄炮を持ち帰った津田監物は、ただちにこれを根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じ、1545年に紀州第一号の鉄炮が誕生したという。そして監物の弟で根来寺の子院「杉ノ坊」の院主である津田明算(みょうさん)に命じて武装化を進めていった。これが鉄炮傭兵集団・根来衆の発祥となる。
 堺では橘屋又三郎が鉄炮の製造に着手、後に「鉄炮又」と呼ばれる大商人となる。また上記根来の芝辻清右衛門が後に堺に移住したこともあり、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになる。

 もうひとつ、鉄炮といえば近江坂田郡国友村の存在を忘れるわけにはいかない。この国友村でも1544年2月、将軍足利義晴が管領細川晴元を通じて国友村の鍛冶善兵衛に鉄炮の制作を命じ、半年後に二挺の鉄炮を献上させたと伝えられているが、これはどうも信憑性に欠けるというか疑問点がある。
 というのは当時の国友村は浅井氏の領内にあり、ほとんど無力化している足利将軍義晴から当主の浅井氏を通さずに国友村に直接命令を下すことなどあり得ないと思われるからである。
 しかし国友村はやがて織田信長の武将であった長浜城主羽柴秀吉が、国友藤二郎なる人物を抜擢して国友河原方代官に任命することにより、織田政権下において鉄炮の一大生産地として機能していくようになる。これが事実上の国友村の鉄炮生産地としての発祥ではないかと思うのである。

 各地の発祥はどうであれ、鉄炮は次第にその数を増し、中央では石山合戦から長篠合戦へと本格的な「鉄炮戦」の時代を迎えることになる。



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