湯川衆と足利義昭

戦国期の紀州には、雑賀衆・根来衆の他にも湯川衆・本宮衆などと呼ばれるいくつかの地侍集団がありました。ここでは信長に京を追い出された足利義昭が、由良興国寺に流れてきた際に頼ったと思われる湯川衆について触れてみることにします。


湯川衆とは
 写真は湯川氏の居城・亀山城跡
現在の亀山城跡  湯川衆とは、中紀日高郡一帯以南(今の和歌山県御坊市周辺から田辺市に至る地域)を領し、初め牟婁(むろ)郡芳養(はや)荘泊城、のち日高郡亀山城を本拠とする湯川氏一党のことを指す。
 この湯川氏という土豪は、南北朝期以来ずっと北朝方として足利氏に仕え、所領もその軍功などで足利氏から賜るなど、代々古いつきあいのある家柄であった。戦国期の湯川氏の当主は直光・直春で、石山合戦の際にも「湯川(河)衆」として雑賀衆・根来衆とともに「信長公記」中にその名が見えている。

 湯川氏は大永年間までは紀伊守護畠山氏に属していたが、当時の守護とは名ばかりで、その威令はほとんど行われていなかった。明応二年、足利義材方に加担した畠山政長が、河内正覚寺城で細川政元の加勢を受けた同族の義豊に敗死すると、同八年には政長の子尚順が再び巻き返しを図る義材(この時には義尹と改名していた)に応じ、父の仇とばかり起ち上がって義豊討伐に出向き、とりあえず義豊は討ち取り高屋城を奪うのだが、またもや赤沢朝経らの政元勢に敗れ、紀伊に奔って広城に拠った。

 これを助けたのが湯川直光である。永正元年には出家してト山と号していた尚順が再び兵を起こして細川氏に大勝、畠山義豊の子で河内高屋城主義英と和睦するに至る。しかし天文元年に直光は畠山氏に背いたため、尚順が討伐の兵を差し向けるが逆にこれを撃退、同三年に尚順は淡路に奔りそこで歿したという。
 さて永正三年七月、直光は尚順の子稙長の重臣山本広信の兵と切目坂・印南野で戦うが、愛洲・玉置氏らの調停により詫びを入れ和睦、後には稙長の甥高政に従って守護代を務めるなど、その信任を得るに至った。
 しかし永禄五年、高政に従い河内飯盛城攻撃の先鋒として出陣した直光は、五月二日教興寺の陣において三好摂津守の背面攻撃に遭い、多数の重臣とともに討死してしまった。そして直春が跡を継いだ。


足利義昭の来寓

 時は移って天正元年。中央では織田信長と足利義昭の対立がますます激しくなっていた。そしてこの年の七月十九日、信長は宇治槇島城に籠もった義昭を攻めて京から追放、ここに室町幕府は滅亡する。さて、追放された義昭はこの後どういう行動をとったのであろうか。

 まず彼は河内若江城、次いで堺と移り、やがて紀伊由良の興国寺にやってきた。この興国寺は湯川直春の勢力圏で、彼は足利家と代々付き合いのあった紀州の実力者湯川氏を頼って来たのである。しかし義昭は由良興国寺にはあまり長居はしなかったようで、近くの道成寺から「道成寺縁起絵巻」を取り寄せて奥書を加え、また「日本無双の縁起」と称賛して刀一腰・馬一疋を道成寺に贈った記録が残っているが、彼は程なく湯川氏発祥時の本拠・泊城に移り、ここで本宮衆玉置氏ら紀州の地侍たちに文書を発し協力を要請している。
 この泊城というのは上記にもあるように牟婁郡芳養荘(現和歌山県田辺市)にあり、もともと湯川氏の本拠であったが、義昭来寓当時は直春の伯父湯川安芸守の居城で、牟婁郡における統治拠点であった。
 

 ここで義昭が発した文書を紹介する。謀臣槇島昭光に書を託し、紀伊奥郡衆を動かすべく遣わしたものと思われる。

☆『玉置氏文書』(『日高郡誌』に収録)

就今度信長恣悪逆、至当國候、此刻別馳走可為感悦、為其差越孝宗候、猶眞木島玄蕃頭可申候也
(天正二年)二月六日         (義昭)判
本宮衆徒中


 信長に降伏して追放されたはずなのだが、「就今度信長恣悪逆、至当國候」とはまた過激な文言である。義昭は一年余り泊城に留まってあれこれ画策するが、直春も本宮衆玉置氏らも彼の期待したようには動かず、結局は失意のうちに紀州を去り、毛利領備後鞆の浦へと向かうことになる。



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