甲賀郡中惣と甲賀五十三家

近江国・甲賀は正しくは「こうか」と読みます。戦国期の甲賀では「郡中惣」と呼ばれる独特の合議制により事案を決定していました。そして1487年のいわゆる「長享の乱」の「鈎(まがり)の陣」に活躍した甲賀在住の五十三の地侍(郷士)たちを甲賀五十三家と呼び、またその中でも重きをなす(六角氏より感状を与えられた)二十一の家を甲賀二十一家と呼んでいました。ここではそれらに少し触れてみることにします。


鈎の陣と甲賀忍者

 写真は鈎の陣の義尚本陣真宝館跡(永正寺)
義尚本陣真宝館跡(永正寺)  鈎の陣とは1487年、当時着々と力を蓄えてきていた観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が、足利幕府の命令を軽視あるいは無視しだしてきたことから、将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に行われた戦いのことをいう。
 義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角政頼・高頼父子は甲賀城に逃れた。いや、逃れたというより直接対決を避けて姿をくらましたと言った方が適切かもしれない。そこで義尚は本陣を栗太郡・鈎の安養寺に移して甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角父子は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。
 甲賀武士達は山中でその地の利を生かしてさまざまな奇襲をかけ、また時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、さんざんに幕府軍を苦しめたという。

 そのためなかなか決着はつかず、1489年には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたって繰り広げられた戦いは終結して六角氏は生き残ったのだが、このときの神出鬼没のゲリラ戦やその高い戦闘力の印象が甲賀武士達を全国に知らしめることになったのである。
 そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び、甲賀の地が織田信長に席巻されるまでの間、六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍していったのである。


甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)

 写真は甲賀流忍術屋敷(望月出雲守旧宅)
甲賀忍術屋敷  甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定する「合議制」によって運営されていたいう、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里である。
 「惣」には三種類あり、それぞれ「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていたが、各氏族はこのいずれにも属し、それぞれの大小の事案に応じた適切な「惣」の決定により足並みを揃えて行動したという。それぞれの「惣」は以下の通りである。
 なお、写真の望月出雲守屋敷跡(現甲賀流忍術屋敷)の所在地「竜法師」は「りゅうぼし」と読むのが正しい。この望月氏は信濃の名族滋野氏の支流で、伊賀の服部氏と並んで「甲賀望月、伊賀服部」と称された甲賀の大姓である。六連銭の真田氏も同じ滋野氏の支流なので、「真田忍び」はどこかでこの甲賀望月氏との関係があったのかもしれない。


郡中惣

 これは、五十三家の中から代表として十家を選出し、その合議による決定に従って郡全体の行動を起こしたとされるものである。家柄による身分差はなく、全ての家々は平等に扱われたという。

地域連合惣

 これは二十一家をそれぞれ「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」の四地区に分け、その下に地域ごとに残りの五十三家の各氏族が従い、それぞれの地域に関する案件を合議によって決定したとされるものである。

同名中惣

 これは五十三家の各氏族ごとに代表者(同名奉行という)を選出し、本家・分家等同名の一族が参加して多数決によって氏族ごとの行動を決定したとされる。本家・分家の発言力にはほとんど差がなかったという。


 しかしこれらの惣も、次第にその機能は弱まっていった。一枚岩の団結を誇っていた甲賀衆といえども、もはや斜陽の六角氏を主に据えている限り、押し寄せる織田信長の侵攻をくい止める程の力はなかった。1563年10月、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことから世に言う「観音寺騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、六角氏はますます弱体化していく。そして1568年9月、足利義昭を擁して進撃してきた織田信長の前に家臣達の離反もあってひと支えもできず六角父子は甲賀へ逃れ、ここに近江六角氏は事実上滅亡した。
 承禎(義賢)・義治父子もしばらくの間はわずかに残った甲賀衆を使い、世上に名高い杉谷善住坊の信長狙撃未遂事件を起こすなど多少の抵抗はあったものの、やがて信長が安土に築城して覇権を確立するとともに近江から完全にその姿は消えた。


不詳の人物・山中大和守

 私には長年ちょっとした疑問があった。それは甲賀の上忍として小説などに描かれていることが多い「山中大和守」なる人物の正体である。例えば池波正太郎氏の人気小説「真田太平記」には「俊房」の名で登場するが、この「大和守」という人物、甲賀の上忍であることには違いないのだが、今ひとつその存在がはっきりしなかったのである。

 この稿の作成に当たり二度甲賀の地へ取材に足を運んだのだが、水口(みなくち)城資料館で私にとっては貴重な資料を見せていただいた。結論を先に言うと、残念ながらやはり「不詳」の域を出ないのだが、少し興味深い資料があったので記しておく。
 その資料の中に永禄三年六月十日付の書状があった。内容は徳政令についての和田伊賀守(惟政か?)との間の相談事のようなものだったと思うが、その差出人が「八郎九郎俊房」で、宛名が「山中大和守」なのである。永禄三年といえば五月十九日に桶狭間の合戦が行われており、この書状はその直後のものである。つまりこの時期において「俊房」なる人物は実在するが「大和守」ではない。これがまず一点。
 次に慶長八年五月八日付の「山中同名中惣回状」差出人に「大和守俊好」の署名が見られた。慶長八年といえば徳川家康が幕府を開いた年であるが、この時期では「俊好」なる人物が「大和守」なのである。「戦国人名事典(新人物往来社)」では俊好は天正十三(1585)年に改易、帰農したとあるが、この書状を見る限りではその十八年後もまだ一族を統率する立場にあったように見受けられる。山中氏の系図もあるのだが、資料館側のお話では分家の数が多く一族間の関係が複雑であることと、系図自体の信憑性にやや疑問があるらしく、あまりあてにはならないとのことであった。

 俊房が大和守を称したとする資料は見当たらなかったが、少なくとも大和守俊好なる人物が上記の同名中惣回状差出人(山中家当主)として実在したこと、そしてこの「同名中惣」が江戸初期の時点でまだ山中氏一族については機能していたことが確認されただけでも足を運んだ甲斐があったかと思う。
 余談だが、資料館のある水口城は将軍徳川家光の上洛時の宿として1634年に築かれた。そしてここは元甲賀五十三家の美濃部氏の屋敷であり、築城奉行は小堀遠州政一が務めたという。なお1585年に中村一氏により築城され増田長盛・長束正家の居城となった水口城は「水口岡山城」と呼ばれ、これとは別であることを付記しておくとともに、取材に快くご協力いただいた水口城資料館の管理人様に厚く御礼を申し上げる次第である。


甲賀五十三家

氏族名当主二十一家一族関連人物地域連合惣
山中氏山中十郎山中俊房・山中長俊・
山中俊好・山中十太夫
柏木三家
伴 氏伴佐京介伴長信・伴五兵衛柏木三家
美濃部氏美濃部源吾 柏木三家
黒川氏黒川久内黒川与四郎北山九家
頓宮(とんぐう)頓宮四方介 北山九家
大野氏大野宮内小輔 北山九家
岩室氏岩室大学介 北山九家
芥川氏芥川左京亮芥川七郎兵衛・芥川清右衛門北山九家
隠岐氏隠岐右近太夫 北山九家
佐治氏佐治河内守佐治三郎北山九家
神保氏神保兵内 北山九家
大河原氏大河原源太 北山九家
大原氏大原源三郎篠山景春南山六家
和田氏和田伊賀守和田惟政南山六家
上野氏上野主膳正 南山六家
高峰氏高峰蔵人 南山六家
池田氏池田庄右衛門 南山六家
多喜(滝)氏多喜勘八郎中村一氏南山六家
鵜飼氏鵜飼源八郎鵜飼勘右衛門荘内三家
内貴氏内貴伊賀守 荘内三家
服部氏服部藤太夫 荘内三家
小泉氏小泉外記   
倉治氏倉治右近介   
夏見氏夏見大学 夏見角助 
杉谷氏杉谷与藤次 杉谷善住坊 
針 氏針和泉守   
小川氏小川孫十郎   
大久保氏大久保源内   
上田氏上田河内守   
野田氏野田五郎   
岩根氏岩根長門守 岩根勘兵衛・岩根甚左衛門 
新城氏新城越前守   
青木氏青木筑後守   
宮島氏宮島掃部守   
杉山氏杉山八郎   
葛城氏葛城丹後守   
三雲氏三雲新蔵人 三雲成持・三雲成長 
望月氏望月出雲守 望月吉棟・望月兵太夫
望月与右衛門
 
牧村氏牧村右馬介   
八田氏八田勘助   
高野氏高野備前守   
上山氏上山新八郎   
高山氏高山濃太左衛門   
守田氏守田藤内   
嶬峨氏嶬峨越前守   
鳥居氏鳥居平内   
平子氏平子主殿介   
多羅尾氏多羅尾四郎兵衛 多羅尾光俊(光弘) 
土山氏土山鹿之助   
山上氏山上藤七郎   
饗庭(あえば)饗庭河内守   
長野氏長野形部丞   
中山氏中山民部丞   



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