伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱

甲賀と同じく伊賀でも戦国期には「伊賀惣国一揆」と呼ばれる独特の自治共和体制により事案の決定がなされていました。この中心となった「伊賀上忍三家」と、国中が壊滅状態に陥った「天正伊賀の乱」に少し触れてみることにします。


伊賀惣国一揆と上忍三家

 写真は現在の伊賀(三重県伊賀市)
現在の伊賀  戦国期の伊賀では、北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林氏が、南部大和との国境城山(現在の名張市竜口)と東部友生村喰代(ほおじろ)郷に百地丹波守率いる百地氏が、そして中央部予野(現在の伊賀市中心部)に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。
 伊賀は鎌倉末期まで、その国土の九割近くを荘園として管理していた大和東大寺の支配下にあった。つまり、中央から任命された守護や地頭は残りわずか一割ほどの土地の支配権しか持たず、ために伊賀の地侍たちは中央の支配を受けなかったという特異な背景がある。そして東大寺の勢力衰退に乗じて各地侍はその荘園を思い思いに侵略、ために数十もの独立勢力として割拠するという異常事態になる。
 この状況下では、家を保つためにはそれぞれが情報網を持たなければならず、情報収集術に優れた忍者達の活躍の場が自然と出来上がっていったのである。しかし、やはり中心となったのは千賀地服部家で、国の要地に前述の藤林・百地氏を据えて近郷の地侍達を支配させていった。

 そして、国主は持たずに一族で一党を形成すること、掟を定めた上で重要事案については党同士が回文を回し、必要に応じて連判状や起請文を認めることなどを決め、これを伊賀地侍の中から選出した12人の代表によって運営した。これが伊賀惣国一揆である。


天正伊賀の乱

 写真は現在の伊賀上野城(三重県伊賀市)
伊賀上野城  1581年9月に起きた「天正伊賀の乱」は一大殺戮戦として名高いが、これには伏線がある。順を追って見てみよう。
 その3年前の1578年、伊勢の北畠信雄は伊賀侵攻の拠点とするべく神戸の地に丸山城を構築し始めたが、伊賀の地侍・百田藤兵衛らがこれに先制攻撃をかけ、築城奉行の滝川雄利を追放して城を焼き払うという出来事が起きた。
 頭に来た信雄は報復の機会を伺っていたが、元々大した武勲もなく織田家中からは蔑視的な視線を向けられていたこともあり、十分な根回しや準備もせず功を焦る余り1579年9月、これを実行に移した。
 結果は惨憺たるもので、山岳戦で迎え撃った伊賀勢に大打撃を受け、大半の部下を亡くしてしまう。当時京にいてこの事を知らなかった父信長は「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と激怒した。これを第一次天正伊賀の乱という。

 そして2年後の1581年9月、信長は伊賀を徹底的に殲滅させる戦術に出た。信雄を総大将に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら錚々たる面々と六万もの大軍(一説には三万余とも)を周囲六道から一斉に攻め込ませたのである。迎え撃つ伊賀勢は約九千、兵力差は如何ともしがたく、あっという間に四十九院をはじめとする神社仏閣・城砦は焼き払われた。

 伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けたが、百地丹波をはじめ生き残った者達は伊賀南西端の柏原城に立てこもる。しかし織田勢はこの小城を三万の大軍で包囲し、翌日は落城と誰もが思ったとき、信長から信じられない命令が通達された。
 「力攻めはするな。和議を整えて残兵を退去させた上で無血入城せよ」信長自身の方針か、誰かが信長を動かしたのか、それはわからない。しかしこうして百地丹波は生き延びて紀州へ逃れ、歴史の表舞台から消えた。これが伊賀平定戦とも言われる第二次天正伊賀の乱である。


不詳の人物・百地三太夫

 写真は竜口の百地砦跡(三重県名張市)
竜口の百地砦跡  さて、甲賀の山中大和守と同様に伊賀にも不詳の人物がいる。ご存じ「百地三太夫」なる人物である。講談や小説などでは忍術の達人で、石川五右衛門の師匠として描かれることの多いこの人物、百地家の系図にはその名はないのだが、さてその実体は・・・。
 百地三太夫は架空の人物と見る向きも多いが、ある資料によると三太夫は1571年に百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物である。前述の天正伊賀の乱以前は名張竜口の地に住んでいたらしいが、乱の少し前に喰代(ほおじろ)の里へ伯父の百地丹波とともに移ったという。したがってこの記録に見る限り、天正伊賀の乱で国人のリーダー的存在となった人物は三太夫ではない。なぜなら当時三太夫はまだ十歳だったからである。
 百地氏は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口にそれぞれ拠点があり、一族も多い。喰代のほうは戦国期に砦を築いただけで、どうやらその本拠は竜口のようである。また、「百地」は「ももち」と読むのが普通だが、現地では「ももじ」と読むとのこと。これは現地での取材時に「ももじ」と名乗るおばあさんからお伺いした話である。
 乱は柏原城を開城して終結したが、このとき三太夫を含む百地丹波守以下百名ほどは高野山に下り、やがて紀州根来の里に定着したという。百地三太夫はこれをもって歴史から消えるのだが、しばらくして思わぬところで今度は百地丹波の名が再び現れてくる。

 やがて大坂の陣や島原の乱も終わってようやく平穏な世の中になった1640年、伊賀城代家老に藤堂釆女なる人物が任命されたのだが、この人物、元の名を保田元則といい、父は千賀地半蔵則直。すなわち服部半蔵正成の兄なのである。
 彼は紀州に隠棲していた百地丹波の子・保武を呼んで伊賀藩士に取り立て、伊賀の名門藤林家を再興させる。そしてこの藤林保武が後に忍術書の最高峰と言われる「萬川集海」を著すのである。また、紀州に残った弟の正武も忍術新楠流の開祖となり、これも名高い「正忍記」を著す。
 つまり、忍術秘伝書の双璧と呼ばれるこれら二書は、どちらも百地丹波の子によって完成されたのである。改易された服部家に代わって半蔵の甥が伊賀の城代家老になって国を治め、百地丹波の子が藤林家を再興し「萬川集海」「正忍記」を後世に残した。これには泉下の半蔵正成もきっと喜んでいたことだろう。
 ちなみに丹波は一度伊賀に帰ってきたものの伊賀には住まず、天正伊賀の乱の最後の砦・柏原城にほど近い大和国竜口に隠棲して生を終えたという。



NEXT TOP HOME