大和島氏の起こり

左近の出自は現時点ではやはり大和説が有力です。これ以降は興福寺一乗院方坊人(春日社国民)・大和島氏をその発生に遡り、戦乱期の島氏と平群谷の情勢や未解明である左近の出生から彼が筒井氏を離れるまでの事績を、推論も含めて少し詳しくご紹介します。


検証・大和出自説

 島左近の出自について、対馬説・近江説は少々無理があるであろうことは前稿でざっと述べた。つまり、現時点では左近はやはり大和の出自と見る方が自然である。

現在の平群谷(南東部)  大和島氏が本拠とした平群谷(現奈良県生駒郡平群町)は、大阪府と奈良県の境に位置する生駒山地のすぐ東側にあり、奈良市から南西約15kmの地点にある。島氏はここ平群谷を本拠とする春日社国民であり、興福寺官符衆徒である筒井氏と同じく一乗院方に属していた。島氏はおおむね早い時期から筒井氏と行動を共にしていたと思われ、この時期の大和研究には欠かせない『大乗院寺社雑事記』など信頼できる史料にも時折その名が見られる。
 写真は旧福貴寺(ふきでら)庄地内から平群谷南東部を望んだもので、正面に見える山脈(矢田丘陵)のほぼ中央付近には左近が築城あるいは改修したと言われる椿井城跡が、また同城の北西麓には左近の居館と伝えられる平等寺館跡がある。

 しかし応仁の乱前後に端を発した河内畠山氏の内紛に始まり、永禄期以降長きに渡って島氏を含む筒井氏方勢力と争った松永久秀が天正五年十月に信貴山城(平群町信貴山)に滅ぶまで、この地域を含む大和北部は入れ替わり赤沢朝経(沢蔵軒宗益)や木沢長政といった外部勢力の侵入に遭う。『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』などに見られる「自焼没落」という記録の通り島氏も一時城(居館)を自ら焼いて逃げ出した時期もあり、ずっと平群谷に根を下ろしていたわけではないのである。

 これ以降は当時島氏と重要な関わりがあったと見られる筒井氏・椿井氏・曾歩々々(そぶそぶ)氏および松永久秀の動向も含め、少し掘り下げて大和島氏の動きを追っていくことにしたいと思う。


大和島氏の起こり

 さて、島氏はいつごろから平群谷に住むようになったかであるが、嘉暦四(1329)年の春日行幸の設備用竹の在所注文に「平群嶋春」の名前が見えるのが、大和島氏の文献上の初出のようである。実はこれより先、徳治二(1307)年の『若槻庄土帳 土帳并条里坪付図』(菅孝次郎氏旧蔵)の本名にも「平群」「嶋」と見えるのだが、若槻庄(現大和郡山市)は文献上の初出は建永元(1206)年と比較的古いとは言え、興福寺大乗院領の庄園(他に東北院・摂関家領も存在する)でありまた「嶋垣内」の規模も小さいため、おそらく本稿で言う大和島氏とは無関係ではないかと思われる。

白山神社  鎌倉〜室町期における平群谷の有力者としては後述する曾歩々々(そぶそぶ)氏・椿井氏らがおり、島氏は当初はこれらの勢力下にいた可能性も大いに考えられる。しかし、上記の通り嘉暦四(1329)年に「嶋春」の名前が見えることから、断定できるまでには至らないが、この頃興福寺一乗院の国民に列せられた可能性があり、同時に福貴寺領もおさえたものと一応推測される。つまり、これをもって大和武士としての島氏の発生と考えて良いであろう。
 むろん、武士と言っても「平群谷の地侍」といった程度のもので、言い換えれば「有力地主」の域を出ないものであるが、当時の大和にはそういう武士が各地に多数存在(誕生)していた。そして後にこれらの大和武士たちを統率する位置に登るのが筒井順慶なのである。
 写真は福貴寺庄の中心地・福貴寺跡(現白山神社=平群町福貴)で、この場所こそが大和武士・島氏発祥の地と言って良いであろう。

 平群谷には福貴寺庄の他に福貴・安明寺(あんみょうじ)・戌亥(いぬい)・岩見・大内・上(かみ)・兼殿(けんのとの)・上土田(かみつちだ)・上吐田(かみはんだ)・北土田・下吐田(しもはんだ)・土田・成重小・成重北・西宮・吐田(はんだ)・平野殿(ひらのどの)・水氷(みずこおり)・南土田・吉田などの各庄園が見られるが、島氏の現れた頃には平群谷北部の平野殿庄(東寺領)を中心とする一帯は平氏一族(ここから曾武々々氏が派生)が、中南部の福貴寺・大内庄(興福寺領)は椿井氏がそれぞれ管理していた模様である。
 なお、これらは文献記録上において平群谷に見られる庄園を列挙したもので、時代とともに消えていった庄園も含まれており、すべてが同時期に存在したものではないことをお断りしておく。
 島氏はこの後至徳年間(1384〜1386)の『流鏑馬日記』にその名が見え、応永十一(1404)年には『寺門事條々聞書』記載の国民に、曾歩々々氏らとともに「嶋」とあることから、至徳年間あたりまでには間違いなく興福寺一乗院国民に列せられていたと見て良い。

 次いで応永二十一(1414)年十一月二十四日付で、以下のような記録がある。

「森本入道一族申
 畏注進申候、大和国平野庄下司曾歩々々入道并いぬい父子悪行事、只今国中如此悪党共厳密検断時分候之間、注進申候、(中略) 此上者、寺家として厳密之御罪科候て、庄家を御退出あるへく候、此旨委細御尋者、あき志のとの・をさきの弁・志まの入道・いこまの下庄ひかしのけんせんに御尋候へく候、此趣森本入道申をきて候之間、如此注進申候
 十一月廿四日」(『東寺百合文書』)


 これは平野殿庄下司曾歩々々氏らの悪行を森本氏一族が東寺に訴え出たものであるが、記録中に見える「志まの入道」が当時の島氏の当主(または一族中の権力者)と思われ、その証人として近郷の土豪らと同列に扱われていることがわかる。参考までに、「あき志のとの」は秋篠庄(現奈良市秋篠町一帯)を本貫とする一乗院方坊人秋篠氏、「をさきの弁」は秋篠氏の一族で一乗院方坊人秋篠尾崎氏と思われ、「いこまの下庄ひかしのけんせん」は不詳であるが、平群谷北部で接する生馬下庄(現生駒市)在地の土豪と見られる。
 つまり、こういった土豪たちは地縁的な繋がりから姻戚関係を結ぶことも含め、平群谷の枠内にとらわれず一種の連合体のようなものを作っていたと思われ、相互かつ頻繁に連絡を取り合っていたであろうことが推察される。
 この後、島氏は応永二十七(1420)年には福貴寺・大内庄の下司職に任じられていた模様で、天理図書館保井文庫蔵の『一乗院坊人用銭・給分支配状』には、

「十貫文嶋 福基寺、大内庄下司職、同庄御米
 二貫文曾歩々々 兼殿庄下司職田弐町四反六十歩在之」


との記述があることから、これら「福基寺、大内庄下司職」は上記「志まの入道」が任ぜられたものと思われる。つまり、島氏は初めは「庄内の有力者」程度の存在だったのが庄内外の諍いなどを経て次第に勢力を拡大、この頃には福貴寺・大内両庄の下司職を獲るまでになっていたわけである。
 椿井氏系図によると、建長二(1250)年に四代将軍藤原頼経の三男氏房が平群に住して以来代々椿井氏を名乗り、初め福貴寺庄(現平群町福貴=平群谷中西部)と大内庄(現平群町椿井周辺=平群谷南東部)を管理していたとされるが、応永年間までに島氏との力関係が逆転し椿井氏が平群谷を去った(追い出された)可能性も考えられる。つまり、後に登場する山城相楽郡椿井を本拠とする国人椿井氏は、この平群谷椿井氏の後身である可能性が高い。もしそれが事実なら、興福寺大乗院方衆徒に属して終始島氏と対立していた(文明年間末に椿井懐専が島左門に討たれた記録がある)裏には、平群谷を追い出された「恨み」があったのかもしれない。
 こうして島氏は着々と成長し、この時期にはすでに平群谷で一番大きな勢力になっていたことも十分考えられる。


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