検証・左近出生の謎(2)

木沢長政が滅び、大和に平穏が訪れたかというとそうではなく、国人一揆はまたもや崩壊します。そして松永久秀の侵入を迎えることになりますが、そんな中の永禄十(1567)年六月、「平群嶋城」に問題の庄屋が乱入します。


松永久秀の侵入

多聞山城遠景  木沢滅亡後、大和国人一揆はまた崩壊するが、これを機に筒井順昭が勢力を盛り返した。しかし永禄二(1559)年八月、三好長慶は河内守護代安見直政を高屋城に攻め、紀伊に逃れていた畠山高政を同城に迎えると、勢いに乗って重臣松永久秀を大和に派遣し筒井・十市氏らを攻めさせた。筒井氏らは久秀勢に破れて没落、久秀は信貴山城を再築してこれを本拠とし、本格的に大和支配に乗り出す。
 久秀は永禄三年二月四日に弾正少弼に任ぜられ、翌四年には従四位下に昇り将軍義輝の相伴衆となるなど勢いを増し、続いて南都に多聞山城を築き大和国人衆ににらみを利かせた。ちなみに従四位下といえば、主君三好長慶(天文二十二年三月任官)と同位である。さらに同八年五月、久秀は三好三人衆らと謀り将軍義輝を室町御所に攻め殺し、その弟で興福寺一乗院門主覚慶(後の足利義昭)を同院に幽閉するという荒技を演じる。写真は多聞山城の遠景で、左近の墓がある三笠霊園から撮影したものである。

 同年十月、丹波の波多野晴通らが荻野(赤井)直正に応じて山城へ出陣してくると、久秀は配下の竹内下総守秀勝を山城へ派遣して撃退するが、これを機に大和国内は騒然となった。反松永派の大和国人衆は多聞山城包囲網を形成し反撃の様相を呈すると、久秀は山城から帰陣した秀勝をこれに備えさせた。この竹内下総守秀勝なる人物は、清和源氏義光流の公家で享禄元年より洛中の傾城屋(遊女屋)の公事銭徴収役を務めた竹内季治入道真滴の弟といわれ(注1)、詳細な履歴は不明だが早くから久秀に属していた模様である。永禄十二年(年代は比定)三月二日には摂津多田院宛に織田信長配下の佐久間信盛・柴田勝家・森可成らとともに連署状を発給しており(『多田院文書』)、信長からも一目置かれていた人物であったことが窺える(同書状には同じく久秀配下の野間長前の名も見える)。多聞院英俊とも交流があったようで『多聞院日記』に頻繁に登場し、元亀二(1571)年九月二十二日に河内若江で没する(同日記)まで、久秀の重臣として活躍したようである。
【注1】現奈良県北葛城郡当麻町の竹内城を本拠とした国人とする説もある。

 ここで先述『多聞院日記』永禄十年六月廿一日条を再掲する。

「一、今朝平郡(群)嶋城ヘ庄屋入テ、継母・同男十五才ヲ始テ、至二才五人并御乳一人・南夫婦合九人令生害、親父豊前方ハ立出候了、 中にも持寶院・福生院弟子ノ兒既ニ入室、今度乱ニ在田舎之處ニ生害、三ヶ大犯言悟道断曲事越常篇、中〃無是非次第也、追日凶事浅猿〃〃、」

 この事件が起こった当時の平群谷の状況を考えるに、筒井・三好三人衆勢と交戦中であった久秀は主に多聞山城に在城したようであるが、当然信貴山城との連絡は頻繁に行われていたことは容易に想像されよう。つまりその「通路」にあたる平群谷は、まず久秀の支配下にあったはずである。とすれば、大和島氏は再び追い出されて流浪していたか、または一時的にせよ久秀に属してその支配下に組み込まれていたことになるが、上記英俊の記録から後者と見るのが妥当であろう。この惨劇が起きた「平群嶋城」の位置についてであるが、戦国期の平群谷には城と呼べるものは砦や居館程度のものを合わせると、椿井城・西宮城(下垣内城含む)・三里城・上庄城といったところが挙げられる。平群谷北西部には椿木城もあるが、この城は成立時期が不明で椿木氏も早い時期に平群谷を出たと見られることから、調査対象から外させていただいた。


「平群嶋城」とはどこの城か

信貴山城〜多聞山城間略地図

 上の図は信貴山城と平群谷および多聞山城の位置関係を表した図である(資料提供:平群町教育委員会)。信貴山城〜多聞山城間における久秀の移動経路としては、西宮城の南で竜田川を渡り、矢田丘陵の南端を回って竜田城・法隆寺・小泉城・郡山城と経由して(図中のAルート)多聞山城へと向かっていたと考えるのが自然であろう。また、道は細いが信貴山城の出城である立野城を経由して竜田城へ出るルートもあり、こちらも利用していたものと思われる。一番近いのは椿井城の北を経由する道(同Bルート)だが、山越え道のため使用頻度はさほど多くはなかったと思われる。上庄城の北から真東に抜けるルート(同Cルート)もあることはあるが、ご覧のように6km以上の山越え区間があるため移動には適していない。また竜田川を渡ってから北上し、平群谷を抜けて生駒谷へ入って現在の南生駒駅付近から東進するルート(後の暗越奈良街道・同Dルート)については、ここは西から河内勢力の侵入が容易なため、時期的に見て避けたであろうと思われる。

 まず椿井城であるが、同城はその遺構から明らかに信貴山城に対抗して築かれたものであり、当時の平群谷の情勢を考えると、この頃に存在していたとは到底思われない。同城は後に筒井順慶が再び勢力を盛り返した際、左近の手によって築城されたと見るのが自然である。当時椿井城があって島氏がここに拠っていたとしても、周辺は久秀に押さえられ、また筒井氏が劣勢であり後詰めもない以上、城として機能しないのである。それに、このような「目障り」な場所にある城は、真っ先に久秀が攻略するはずである。
 次に西宮城・下垣内城・三里城であるが、西宮・下垣内両城は信貴山城から平群谷へ降りてきた真正面に存在するため、まず久秀の支配下にあったことは確実と見られる。三里城は椿井城の北に位置し、平群谷から郡山方面へ矢田丘陵越えに通じる道の脇にあることから、これも久秀の移動経路にあたるため当然押さえていたであろう。ということはこれらの城は多少なりとも警備が施されているはずで、仮に島氏が久秀支配下にあったとしても、敵対する「庄屋」が少人数で乱入するには少々無理があるかと思われる。つまり、残る上庄城が乱入事件の起きた場所であり、「庄屋」は北の生駒谷方面から乱入したものと考えたい。

上庄北城縄張図  上庄城には北城・中城・南城があり、かつて東寺領平野殿庄を領した曾歩々々氏が居城していたことは先の稿で述べた。その中でも特に上庄北城は平群谷の北端に位置しており、久秀方の通路からは最も奥まった位置にある。左の図は『平群町遺跡分布調査概報』に見られる上庄北城の実測図で、同城は堀に囲まれる範囲が東西40m・南北52mなる規模の単郭方形城郭だが、郭内は約30m四方と比較的小規模で、城と言うよりは領主としての威厳を在地の百姓たちに示す居館的な性格を持ったものと考えるのが自然である。(資料提供:平群町教育委員会)
 平康清から平野殿庄を買い取って同地に興った曾歩々々氏は俊清・清政・清繁らが記録に見られ天文年間を迎えるが、一族の通字は「清」であることが知られている。また同氏はこれ以降記録から消えることから、私見ながら平野殿庄の位置的に見て島氏に組み込まれたものと考えたいということは先述した。

 さて、山科言継父子の残した任官記録『歴名土代』(りゃくみょうどだい)の天文十五年の項に、「平清茂 同(天文)十五・三・廿四、 同日、豊前守」という、少々気になる記録が見られる。曾歩々々清繁は天文年間の人であり、本姓は平氏である。「清茂」と「清繁」、家名が記されていない上に字も異なるが「音」は同じで、しかも「豊前守」に任じられている。むろんこれだけで平清茂と曾歩々々清繁が同一人物だと即断するわけにはいかないが、もしそうだとすると曾歩々々清繁こそが左近清興の実父である可能性も大いに考えられよう。

 それはさておき、問題は「庄屋」が左近清興本人かどうかである。


BACK  INDEX  NEXT