さて、天文年間には左近が誕生すると思われるのですが、その出生は確かな記録には見られません。ここでは左近の誕生について、残された僅かな記録から一つの仮説を提言します。 |
左近の名乗りについて さて、一連の研究における核心部分のうちの一つ、島左近の出生についてである。これについては確かな記録は残っておらず、また先行研究もされていないようである。手元の資料・文献では『和州諸将軍傳』に「天文九年五月五日」の生まれとされている以外は、左近の生年を記したものは見あたらない。 そして、少々時代は先になるが、左近の出生と人物そのものに関わると思われるのが、『多聞院日記』の以下の記録である。 [ 永禄九(1566)年五月廿六日条 ] 「福生院云、我母八十四才也。嶋ノ庄屋殿近年武者也。當年廿五才我カヲヰ也ト」 [ 永禄十年六月廿一日条 ] 「一、今朝平郡(群)嶋城ヘ庄屋入テ、継母・同男十五才ヲ始テ、至二才五人并御乳一人・南夫婦合九人令生害、親父豊前方ハ立出候了、 中にも持寶院・福生院弟子ノ兒既ニ入室、今度乱ニ在田舎之處ニ生害、三ヶ大犯言悟道断曲事越常篇、中〃無是非次第也、追日凶事浅猿〃〃、」 左近の出生に関するものとしては、現時点において確かなところではこの記録以外に存在せず、彼の出生に言及する論述物では必ず引用されていると言って良い部分である。しかしそれらの論述物では傍証を付記したものが見あたらず解釈が不明瞭で、ここに左近の謎の一つがあると見て良い。ここでは左近の名(諱)を含めて論じてみたい。 まず肝心の名乗りであるが、諸書に清興・勝猛・清胤・友之・昌仲と様々に見られるが、「略歴」の稿でも述べた通り、『根岸文書』に「清興」なる自筆書状が残っていることが一つ。加えて天正五年四月、春日社に寄進した灯籠に「嶋左近烝清興」(「考証・左近灯籠」の項参照)とあり、後の『多聞院日記』の記述にも「嶋左近清興」と見えることから、少なくとも筒井家時代には「清興」を名乗っていたのはまず間違いないところである。諸書に見られる「勝猛」の諱については後に述べるので、ここでは触れない。 通称の「左近」についても諸書に「左近尉」「左近允」「左近丞」「左近亟」などと見られるが、これは正式に任官したものではなく、春日社寄進の灯籠についても、左近側から灯籠を持ち込むのでなく春日社側で灯籠を作成するため、「左近」に続く文字は一種の「敬称」と見なして良いかと思われる。すなわち、正しい名乗りは「島左近清興」であると考える。 また一級史料ではないが、参考までに挙げさせていただくと、左近とその父については以下のような記録がある。 「父は豊前守、興福寺持寶院を建立」(『諸系図纂』) 「初名は清胤、後に友之。父は左門友保、興福寺持寶院は作外」(『和州諸将軍傳』) 「作外」は「いえもと」と読み、「先祖が建立して以来、代々関係の深い寺」というほどの意味と解して良いかと思われる。ところで、上の『多聞院日記』の記録にも「親父豊前」と見え、左近と何らかの関係がありそうである。そこで、上記永禄九年五月廿六日条の「嶋ノ庄屋殿」と永禄十年六月廿一日条の「庄屋」が同一人物であるかどうかから検証を始めてみることにする。 謎の「庄屋」 まず、永禄九年の記録をざっと訳してみると、「福生院なる人物が言うには、『私の母は八十四才です。島の庄屋殿は近年羽振りが良いようですが、今年二十五才になる私の甥です』とのことである」の意であろう。『平群町史』では「武者也」を「裕福である」と解しているが、別にどちらで解釈しても差し支えない。 さて、「近年羽振りが良い(裕福である)」ということは、以前はそうではなかったということである。これは「庄屋殿」またはその先代が管理する庄園が以前より継続して存在していることを暗に示唆しているとも受け取れ、もしそうだとすると他国勢力の出入りの激しい平群谷のことを指すとは考えにくい。また永禄九年当時、平群谷は信貴山城の麓に位置するため、その大部分または全域が興福寺に敵対する松永久秀の支配下にあったと見られることから、平群谷の庄屋が「裕福である」などとは多聞院英俊が記すはずがないのである。 これは後に詳しく述べるが、「庄屋乱入」のあった永禄十年六月二十一日は、こちらの表 に見られるように、まさに松永久秀対筒井順慶・三好三人衆の「南都対陣」のまっただ中であった。 つまり「庄屋殿」は平群谷の人物ではないと見たい。とすると山城島庄が有力候補として浮上してくるが、これは先の「南山城と島氏」で述べた、応仁の乱以降は島庄の年貢上納が滞っているという事実とも符合している。 次に「福生院」なる人物であるが、福生院は持寶院や多聞院などと同じ、興福寺の塔頭子院である。同院は現存していないが、そのかつての所在地を調べたところ、何と持寶院に接する西隣(現奈良市登大路町)に存在していたことが判明した。つまり、両院の間に何らかの関係や頻繁な情報交換があったことは容易に推測され、断定するまでには至らないが、「福生院の甥」が島氏の一族であることは十分考えられる。 さて、「持寶院は島氏の作外で代々関係が深い」ということについては、『和州諸将軍傳』『増補筒井家記』などの少々信憑性に問題のある書にしか見られないため、今まであまり注目されていなかったようである。 そこで改めて調べ直したところ、『大乗院寺社雑事記』明応三(1494)年十一月十六日条に「平郡(群)嶋於越中入滅云々、不便々々、顕乗房父也」、明応九(1500)年四月条に「持寶院ハ顕乗房分也」なる文言が見えることから、明応三年に越中で没した「平群嶋」の子顕乗房が持寶院の主であり、「豊前守」なる人物が建立したかどうかは別として(年代的に見て少々無理がある)、明らかに同院は島氏と関わりのあることが判明した。さらに天文十四年の「率川(いさがわ)社造替方納下算用状」(『春日神社文書』)にも「壹貫文 嶋殿、持宝院御取繼 御神供方歟、兩方納之」と見えることから、この関係は左近の誕生後も継続していることは間違いないものと思われる。 これは重要なことである。筒井順慶の没後に伊賀へ赴き、天正十六年に定次のもとを出奔したとする「左近持宝院遊居説」(『和州諸将軍傳』)や、関ヶ原合戦における左近の最期に関して、後に同院の主が語ったとされる 西軍の敗勢が濃くなった頃、三成家臣の八条勘兵衛という者が、左近に佐和山城へ入って城の守備をしてはどうかと勧めたところ、左近は彼に、我が子掃部や修理の消息をただした。 そして勘兵衛から二人の息子の戦死を聞かされると、左近は「それならば、もう何を楽しみにして生きられようか」との言葉を残し、そのまま敵陣に突っ込んでいったという。 (略歴・「左近の終焉」の稿参照) という逸話があるが、これらの信憑性が少なからず増すことにもつながるからである。 写真は現在の持寶院・福生院跡一帯で、中央右寄りに見える赤い幟(ギャラリー飛鳥園がある)のあたりに持寶院が、その左隣の民家と裏手の薮あたりに福生院があった模様である。余談だが、福生院の斜め向かいには槍術寶蔵院流で広く知られる寶蔵院があった。(「興福寺境内図」奈良県教育委員会文化財保存課-G1995) また、『大乗院寺社雑事記』には「矢田庄屋」「兼殿庄屋」などの文言が見え、同記と『多聞院日記』の書式文体が類似している点を考え併せると、永禄九年の記録にある「嶋ノ庄屋殿」の「嶋」は家名ではなく庄名(または地名)であろう。ということは、先述の南山城・嶋庄のことを指すと見るのが一番妥当かと思われる。 こうなってくると、永禄十年の記録にある「南夫婦」は、これも先の「南山城と島氏」で述べた田邊氏庶流の「南殿」の一族を指す可能性が高いと考えられる。 以上に加えてこの間に「庄屋」の記述が見られないことからも、永禄九年の「嶋ノ庄屋殿」は翌十年の「庄屋」と同一人物であると見るのが自然であろう。記録によると、この「庄屋」が「嶋城」に乱入して一族を殺害、父親はかろうじて逃げ出すという事件を起こす。しかも「持寶院・福生院弟子ノ兒既ニ入室、今度乱ニ在田舎之處ニ生害」とあるように、「田舎」にいた「持寶院・福生院弟子ノ兒」をも殺しているようで、多聞院英俊も「乱」という語句を用いていることから、島氏一族の内紛と見られる。 この「庄屋」は島氏の一族であろうことは察しがつくが、果たして左近本人なのであろうか。さらに「平群嶋城」とは平群谷の何処の城のことを指し、「庄屋」が「乱」に及んだ理由は何だったのであろうか。 解明すべき謎は、まだまだある。 |