苦悩する大和国人衆

筒井党とともに一旦復活したと思われる島氏ですが、大和の受難はまだ続き、赤沢・木沢・松永氏と繰り返される侵略に国人衆は苦しみます。ここでは『奈良県史』を主要引用文献とし、左近登場までの大和の情勢をざっとご紹介したいと思います。


赤沢父子の侵入

 二十一年間没落の憂き目を見た島氏を含む筒井党は明応六(1497)年に復活、ようやく念願の帰国を果たし、代わって越智党は没落する。しかしそれも束の間の明応八(1499)年十二月、今度は細川政元の重臣・赤沢朝経(沢蔵軒宗益)が大和へ侵入して秋篠城に押し寄せ、筒井党と激戦を行ってこれを破り、筒井・豊田・番条・十市・楢原の諸氏は再び没落する。
 朝経は大和侵入後、数カ所の庄園を配下に知行させたため大和国人衆は危機感を持ち、永正二(1505)年二月、春日社頭に起請文を掲げて和睦し結束した。すなわち「大和国人一揆」の結成である。これは中世大和の特異な支配状況を物語っており、外敵の侵入には個々の確執を捨てて一丸となってこれに当たろうとするものである。むろん、その背後には興福寺の存在があるのは言うまでもない。

 同年十一月、細川政元から赤沢朝経を将とする畠山義英(義豊の子)討伐に向けた軍勢が大和を通過することを求めて来るが、大和の国人衆は連判状を作成してこれに反対している(『多聞院日記』)。朝経が大和を通過したかどうかは判らないが、結局政元勢は河内誉田城の義英、高屋城の尚順と立て続けに破り、両人が大和へ逃げ込んだことから、南都に再び緊張が高まる。そして永正三年八月、政元は大和国人衆が義英をかくまったとして、再び赤沢朝経に大和侵略を命じた。
 こうして大和は朝経の二度目の侵略に遭い、大和国人一揆は苦戦する。永正三年八月には郡山城も落とされ、結局一揆勢は大敗北を喫して大和は朝経に支配されてしまう。しかし翌永正四年六月、政元が養子の澄之や香西元長らに暗殺され、大和には部下の和田源四郎を置いて丹後に出陣していた朝経もまた、石川直経らの逆襲を受け退路を塞がれて自刃するという大事件が起こり、周辺の事態は急変する。しかし、一時的に気勢を盛り返した大和国人一揆であったが、やがて細川澄元の家臣で朝経の養子・新兵衛尉長経の侵入を受け、再び大和は三度目の「京衆」による支配を受けることになる。

 さらに一時平穏となっていた河内両畠山氏の和睦が破れ、その影響を受けて大和国人一揆も崩壊する運びとなる。この間の詳細は非常に煩雑かつ複雑なので略すが、結局長経は永正五(1508)年七月に畠山尚順の手に捕らえられ、八月二日に河内に於いて斬首される。これにより大和も平穏になったかというとそうではなく、再び細川・畠山両氏の確執の影響により二派に分かれて一進一退の攻防を繰り返すことになる。つまりは「元の木阿弥」である。


越智氏支配下の島氏

 ところで、明応六年の筒井党復活メンバーに「平群嶋」と見られた(『大乗院寺社雑事記』)後、島氏はしばらく確かな記録からは消える。上記明応八年十二月以降は筒井氏らとともに没落したと思われるのだが、『祐維記抄』の永正十七(1520)年十月九日条に少し気になる記録が見られる。

(前略) 次筒井方与力超昇寺・高山・根尾・番条・嶋、各越智ヘ引汲之処、只今被返付、ヽト云々、雖然先以河内遊佐方預之所領等百姓ニハラ■せヲクト云々、(後略)

 この記録は同日法隆寺に於いて行われた筒井党と越智党の和睦に関するものだが、「各越智ヘ引汲之処」つまり島氏は先の没落後は越智氏の支配下にあった模様である。『奈良県史11 大和武士』によると実際は古市氏の配下とあり、和睦の条件として「只今被返付」と見えることから、これら「与力衆」を筒井氏配下に返すことを条件としていることが判る。つまり島氏を含むこれらの国人衆は当時筒井氏の家臣ではなく、あくまで党を構成する独立した個々の国人と見なされていたことが読み取れよう。島氏もまた、この時点では越智党に属していた以上、当然筒井氏の「家臣」ではなかったようである。
 しかも、古市氏は赤沢ら「京衆」に加担していることから、もしこれが事実なら島氏は筒井氏らと交戦していた可能性もある。このあたりは記録が残っていないので何とも言えないが、実に複雑極まる当時の大和の状況と、小勢力の国人たちの苦悩を物語っていると言えよう。

 さらに、大和国人衆はまたここで三度目の一揆を結ぶ。まさに激動の大和であるが、応仁の乱以降もこうして細川・畠山両氏の内紛に左右され抗争を繰り返してきた実情を考えると、この背景には興福寺の弱体化が大きな影を落としていることは否めない。この間は島氏は記録に現れないため詳細は略すが、引き続いて起こった木沢長政の侵入を簡単に述べておくことにする。


木沢長政の侵入

 享禄元(1528)年閏九月、大和は柳本賢治の侵入を受け、同三年六月二十九日に賢治が播磨東条谷で暗殺されるまで計三度の侵入を受ける。さらに天文元(1532)年には、細川晴元と畠山義宣(義英の子)の抗争から晴元に要請を受けた本願寺門徒衆が蜂起、いわゆる天文一揆が起き畿内各地で戦闘が繰り広げられた。この「騒動」のそもそもの原因は、義宣の被官であった木沢長政が背いて晴元に属したことに端を発する。

 参考までに、天文元年の記録として次のようなものがある。

(前略) 筒井順興ハ家人森九兵衛好之ヲ筒井ニ残シ、嶋左近友之・松倉弥七郎政秀・小和泉等ヲ引具シ、二諦坊ノ作外郡山ノ小田切宮内少輔春次ト一手ニナリ都合三千五百余人、二日ノ朝明ケニ郡山口ニ打向フ、(後略)(『畠山家譜』五條市・楠本治朗家蔵)

(前略) 順興法印筒井ノ城ニハ長子順昭九歳ナルニ家老森九兵衛好之十四歳ナルヲ残シ置キ、嶋・松倉・小和泉等二千五百余人、小田切宮内千余人、両勢合テ三千五百余人、同八月二日郡山口ヨリ押寄タリ、(後略)(『和州諸将軍傳』※句読点は後補)

 『畠山家譜』に「嶋左近友之」と見えるが、これは年代的に見て明らかに本稿主人公の左近ではなく、実在したとするなら「先代左近」である。併記されている松倉弥七郎政秀なる人物は、左近とともに「筒井の右近左近」で知られる松蔵(倉)右近勝重の父で、天文二十二年正月朔日に春日社に灯籠を寄進している(画像あり・「考証・左近灯籠」の項参照)ことから、実在が確認できる人物である。
 この記述は重要で、この時期に「嶋左近友之」の名が見られる以上、当『畠山家譜』はじめ左近の名を「友之」として扱う『和州諸将軍傳』『増補筒井家記』などの諸書は、左近の事績を先代と混同している可能性があり、取り扱いには慎重を期する必要があろう。

信貴山城遠景  大和における一揆は収まったが、畠山氏の被官で河内半国・山城下五郡守護代を兼ねる木沢長政は、大和侵入を目論んで信貴山に城を構えた。信貴山城は平群谷南部の西に位置し、眼下に西宮・下垣内城を見下ろせるため、平群谷に戻っていたと思われる島氏にも緊張が走ったことであろう。写真は平群谷側から見た信貴山城の遠景で、向かって左の峯が雌岳、右の峯が雄岳、左に小さく見える建物は朝護孫子寺である。ここは後にも松永久秀が拠り、筒井氏・島氏らと激闘を交えることとなる。
 長政は天文六(1537)年七月に越智氏討伐を行い、翌年正月には年貢上納に関わる確執から戒重氏を信貴山城で殺害するなど(『享禄天文之記』)、徐々に侵略を広げる。同八年の記録では興福寺領の庄園が三十二ヶ所も闕所(けっしょ)となっていることから、長政がこの間庄園を次々と占領し、自らの家臣に知行させていた可能性が高い。
 ということは、信貴山の東麓にある平群谷は位置的に見て真っ先に狙われるはずで、『平群町史』も「当時は畠山(木沢)の支配下にあったであろう」としている。しかしそれも長くは続かず、長政は同十一年三月十七日に河内太平寺の合戦で戦死、信貴山城も焼け落ちて木沢長政による大和支配は終わりを告げた。

 さて、平群谷が木沢方の支配下になっていたとすれば、島氏はまた追い出された可能性がある。長政の滅亡後には戻って来たであろうが、安堵する暇もなく今度は島氏・筒井氏にとって最大の難敵、戦国の梟雄・松永久秀が信貴山城を再築して拠り、大和に侵入してくることになる。


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