松永久秀の大和侵入以来筒井氏を含む大和国人衆は劣勢となり、さらに信長の墨付きを得た久秀の攻勢は強まります。しかし筒井順慶は流浪しながらもしぶとくゲリラ戦を展開、じわじわと勢力を回復させていきます。 |
織田信長の入洛 永禄十年、南都を舞台に繰り広げた松永久秀と筒井・三好三人衆等との戦いが続く中、十月十日には東大寺の大仏殿が兵火により炎上焼失した。これについては別に こちら に記させていただいたので参照されたい。 戦いの明確な決着をまだ見ない翌永禄十一年、中央で動きがあった。二月八日には足利義栄が室町幕府第十四代将軍に就任するが、京都の地を踏めないまま同年九月(十月説あり)に摂津富田普門寺で三十一歳の若さで病歿する。これに前後する形で越前朝倉家にいた義秋が四月十五日に元服して義昭と改名、織田信長を頼って七月十三日に越前を発った。信長は美濃立政寺に彼を迎え、尾張・美濃・伊勢・三河の軍を率いて九月七日に義昭を奉じて岐阜を発し、協力要請を断った六角義賢を撃破しながら九月二十六日に義昭とともに入洛を果たしたのである。 さて、筒井順慶・三好三人衆は久秀の一方の拠点・信貴山城を六月二十九日に落とし、久秀は窮地に立たされる。しかし機に聡い彼はこの信長上洛というチャンスを逃さず、間髪を入れずに信長に通じて九月二十八日に人質を入れ、その麾下に属す意志を表した。さらに十月四日には義昭を通じて改めて信長に拝謁し、大和の支配を認められる。一時奪われた信貴山城も信長の勢力を借り、十月には取り戻した模様である。これについては同年の『多聞院日記』九月二十九日条・十月五日条にそれぞれ 「昨日松少ヨリ人質ニ、広橋殿ノムスメ号祝言京ヘ被上了、尾張守ヘ被遣之了」 「五日、松少昨日上意并織尾ヘ礼在之、和州一国ハ久秀可為進退云々」 とあり、久秀は筒井氏に一歩先んじて大和の支配権を信長から認められたことがわかる。信長は九月二十九日に三好三人衆の拠る山城勝竜寺城・摂津芥川城をあっという間に抜いて義昭とともに芥川城に入り、近江・山城・摂津の寺院に禁制を掲げ、十月二日には同池田城を攻めると、城主池田勝正は人質五人を差し出して降伏した。その二日後に久秀は信長に拝謁したわけだが、この時秘蔵の茶器「九十九茄子」と名刀吉光を献上したと伝えられる。これが気に入ったのか久秀の人物を見込んだのか、信長は佐久間信盛・細川藤孝・和田惟政らに久秀救援を命じ、早くも十月十日には二万と言われる軍勢をもって大和の諸城を攻めさせている。 余談だが、九十九茄子(九十九髪・作物茄子・付藻茄子とも)は茶道の祖といわれる村田珠光が九十九貫文で求めたことから『伊勢物語』中の一節にちなんでこの名が付いたとされる名器で、後の本能寺の変で焼けたとも大坂の陣で焼けたとも言われるが、現在は修復されて東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に所蔵されている。 筒井氏与力の大和国人衆も義昭のもとへ向かい、中坊飛騨守を中心に無事であり得る御礼を言上する形で信長配下に属すことを求めるが拒否された(『多聞院日記』)。ここに大和一国は織田信長という大勢力を背景に、久秀が支配することとなったのである。 並松の戦い 信長から大和の支配権を任された松永久秀は、当然力を得て再び筒井順慶らに矛先を向けた。順慶は久秀方の攻勢に筒井城を追われ、東山内(宇陀とも)へと退き、久秀は大和国人衆の城を次々と攻略していった。そんな中、久秀と順慶が法隆寺周辺を舞台に激突したとされる「並松(なんまつ)の戦い」の記述が一部の記録に見られる。この戦いについては存在自体が疑問視されており、『大和記』では年月が記されておらず、ほぼ同一内容の『陰徳太平記』では永禄十一年十月中旬とされているが、一番詳細な内容の『和州諸将軍傳』では永禄十二年三月のこととしている。写真は現在の法隆寺・並松周辺で、この戦いが実在したかどうかは別として、各記録中には島左近の名が見られることから、ここでは比較的簡潔に書かれている『大和記』における記述を現代語訳して参考までに紹介しておく。 なお、『和州諸将軍傳』の記述は別稿にて紹介するので、そちらでご覧頂きたい。 松永久秀は大和の大半を手にしていた筒井順慶を討つべく人数を集めて法隆寺まで出陣すると、順慶も筒井より二十町西にある栴檀の木村という所まで出陣した。順慶の先陣は島左近・松倉右近両人で、これに続いて国人衆が従った。さて並松という所まで互いに兵を進め、戦いの火蓋が切って落とされた。松永勢の先手が敗れて退くところへ筒井勢の先手の者共が追い討ちをかけたが、深追いしてしまった。その時久秀が事前に法隆寺内に隠し置いた伏兵が一斉に起ち、筒井勢の後ろへ攻め掛かり退路を断った。敗れたと見せて退いていた久秀勢も反転して盛り返したため筒井勢は惨敗を喫し、筒井城へ戻って籠城することも出来ず、そのまま宇陀郡へ落ちていった。 『多聞院日記』によると、実際久秀は信長の「お墨付き」を貰うやいなや早くも十月六日には筒井郷へ攻め寄せており、城の間際まで焼き払っている。この際の戦いが上記「並松の戦い」かどうかは不明だが、これは郡山辰巳衆が裏切ったためと言われ、一部の筒井勢力は郡山城に残って固く籠城した模様である。しかし結局順慶は八日に筒井城を奪われて東山内に奔った。左近もこれに同行したものと思われる。 この時期は久秀が優勢で大和国人衆の中にも「郡山向井」・「高田殿」(当次郎)のように久秀に寝返る動きがあり、順慶は苦しい戦いを余儀なくされる。なお、上記『大和記』では順慶は宇陀へ逃れたとしているが、同郡は永禄十一年九月までに松永方となった秋山右近直國の勢力圏であり、戦いの日時が特定しにくいことを考慮しても少々疑問を感じる。久秀は翌年にかけて次々と大和国人衆の諸城を攻略するが、永禄十一年十二月七日の貝吹城(現高市郡高取町)の攻防は激戦となり、自軍に多数の討死を出している。 こうして久秀と順慶の抗争は続くが、順慶もしぶとく対抗して久秀の膝下に屈すことはなく、じわじわと勢力を挽回していく。 複雑な大和の国情 さて前年の元亀元年といえば信長の苦難の年で、越前攻め最中の四月二十七日に浅井長政が反旗を翻したため戦線を離脱、帰路千種越えの途中に杉谷善住坊の狙撃に遭うなど這々の体で岐阜へ帰り着くことは有名である。『多聞院日記』元亀元年四月二十九日条には早くも「去二十五日ツルカニテ及一戦、信長人數少も損ノ由ユルキヨリ注進ト云々、實否ハ不知」と見え、五月一日条には「信長・松永悉昨日京迄引退了、廿五日人數二千余も損歟」とあることから、久秀も従軍していたことが判る。一説に、信長を無事に逃がしたのはまさに久秀の功であるともいう。 浅井長政の離反に怒った信長は六月二十八日に近江姉川で浅井・朝倉勢を破って溜飲を下げたものの、七月二十七日には三好三人衆らが雑賀衆を誘い摂津野田・福島に砦を構築、天満ノ森に布陣する。そして九月七日、摂津に出陣した信長・足利義昭が同所に兵を進めると、突如本願寺が三好三人衆に加担する形で挙兵、いわゆる石山合戦が始まった。さらに同月十九日にはこれに呼応した浅井長政・朝倉義景が信長方の近江宇佐山城を攻撃、城将森可成・織田信治が討死する。報を聞いた信長は急遽軍を返して近江坂本へ出陣するがどうにもならず、結局十二月十四日に天皇の綸旨を取り付け三好三人衆・本願寺とも併せて和議に持ち込み、瀬田に軍を引くはめになった。 さらに「大物」が動く。武田信玄が元亀二年三月に三河へ侵攻、翌四月には足助・野田城を落とす。ここに至って久秀は信長に反旗を翻し、信玄に通じて三好三人衆とも和睦する。裏で糸を操るのは足利義昭である。 ところで『多聞院日記』元亀元年四月二十七日条に 「昨夜十城ヘ、嶋沙汰トシテ可有引入通ノ處顯現了ト云々、ウソ也、乍去雑説アル故ニ、廿九日歟ニ嶋ハ取退了ト云々」 とある。十城とは十市氏の十市城(現奈良県橿原市)を指すものと思われ、同氏は先に久秀の軍門に下った十市遠勝が前年十月に没して以来(同日記)、嗣子がなかったことから家中が筒井派と松永派に分裂していた。なお、遠勝の娘「おなへ」は後に松永金吾(久通)の妻となる。勢力回復に一人でも味方の欲しい順慶がこの機を見逃すはずはなく、左近に命じて帰参を交渉させたものではなかろうか。むろん久秀も働きかけてはいるが、同日記六月六日条に 「松城父子南へ陳立、何方ヘか不知之、四打迄井戸辺ニ在陣、各々不審之処十市城ノ内ニ菅原調略筈之処不成間、則菅原ハ柳本ニ離了」 とあるように、十市城は久秀の開城勧告には応じなかったようで、城内松永派の菅原某は柳本へ去った模様である。七月二十五日に久秀が子の久通とともに河内方面へ向かうと、同二十七日には久秀不在の隙に筒井順慶が五百の兵を率いて十市城に入城していることを考えると(同日記)、先の「嶋」の働きかけの時点では態度を明らかにしなかった十市城も、後には筒井方に付いたようである。これは後に筒井氏に属して活躍する十市常陸介(遠長)の意向に拠るところが大きいと考えて良かろう。そして元亀二(1571)年八月、両者はついに辰市(現奈良市西九条町)で激突する。 |