筒井順慶は元亀二年の辰市城の戦いで松永久秀に大勝し、俄然息を吹き返します。久秀は多聞山城を明け渡して信長に降伏し、順慶は信長から念願の大和支配を任されます。 |
辰市城の戦い 元亀元年七月二十七日、久秀不在の隙に十市城に入城して反撃の拠点を得た筒井順慶は翌二年七月、井戸若狭守良弘に命じて辰市に城塁(陣城)を築かせた。その築城(完成)日時には異説もあるが、『多聞院日記』の記述を採用すると同年八月二日のようである。急場仕立ての城ではあったが同城は現在のJR奈良駅から南西約2.6kmの地点にあり、ここを筒井方に押さえられると松永勢は動きが取れなくなる。事態を憂慮した久秀は同城攻略に向け八月二日に信貴山城から出陣、河内若江城の三好義継と合流して四日の昼頃南都大安寺に入った。ここで多聞山城からの久通勢と合流、「酉上刻」(『同日記』)に一斉に辰市城に攻め掛かった。写真は現在の奈良市西九条町で、この付近にかつて辰市城があったと思われる。 松永勢が攻め掛かったところへ駆けつけた筒井勢・郡山衆の後詰が到着し、両軍入り乱れての大激戦となった。後詰めの到着に力を得た井戸勢も城内から討って出て力戦したため松永勢は支えきれず、多聞山城へと退却する。ところが本道は筒井方に塞がれており通れず、久秀は奈良の南・京終(きょうばて)という所で脇道に入って町屋に放火、その煙に紛れてかろうじて多聞城へ逃げ込んだという。(『大和記』) 戦いの結果は松永方の大敗で、久秀甥の松永左馬進と同孫四郎・甥金吾の若衆松永久三郎ら一族をはじめ、麾下の河那邉伊豆守・ 渡邊兵衛尉・松岡左近・竹田対馬守らが討死した。取られた首は合わせて五百、負傷者も重臣竹内下総守秀勝をはじめ五百余を数えるという惨敗で、竹内勢に至っては負傷しなかったのは馬上の三人だけという惨状であったという(『多聞院日記』)。なお薄手を負ったとされる竹内秀勝は翌月二十二日に河内若江城で没しており、戦いで受けた傷が原因かどうかは不明だが、相次いで久秀は最も頼れる部下の一人を失った。 多聞院英俊はこの戦いについて「當國初而是程討取事無之、城州ノ一期ニモ無之程ノ合戦也」、すなわち「大和国始まって以来、これほど討ち取られた戦いはない。久秀の生涯でかつてなかった程の合戦である」と感想を述べている。 『和州諸将軍傳』ではこの戦いにおける筒井勢の先鋒に左近清興と松倉右近等の名が見えるが、宇多(同書には宇多を七月二十九日に出陣とある)を出陣したときの人数はわずかに八百人という。しかし道中次々と大和国人衆が加勢に駆けつけ、辰市に到着した際には五千人に膨れ上がっていることから、これが事実とすれば松永久秀が戦ったのは筒井順慶と言うよりも「反松永大和国人連合」と見る方が正しいかもしれない。むろんその中心は筒井順慶であることに間違いはないが。 松永久秀直筆書状 この後も久秀と順慶の間で戦いは続くが、もはや久秀に以前ほどの勢いはなく、信長をも敵に回していた久秀は進退に窮する。翌天正元(1572)年四月には、頼りにしていた武田信玄が上洛途中に持病の労咳が悪化して伊那駒場で病歿し、反信長派の旗頭で槇島城に籠もって抵抗した足利義昭も、七月十九日に攻め落とされ河内に追放されて室町幕府は滅亡する。さらに信長は八月二十日に越前一乗谷の朝倉義景、二十八日には近江小谷城の浅井長政、十一月には河内若江城の三好義継と立て続けに攻め滅ぼすと、意を決した久秀は十二月二十六日に多聞山城を明け渡して信長に降参した。順慶は翌天正二年正月二日に美濃へ赴いて信長に随身、十一日には多聞山城番として明智光秀が入っている。 さて、ここで少し興味深い画像をご紹介する。これは松永久秀直筆と見られる書状の一部(後半)で、全体としては五件の内容が縦11.8cm×横68.3cmの細長く薄い紙に書かれている。紙質は上質の楮(こうぞ)紙で、多聞山城あるいは出先から信貴山城へ宛てた私信と見られる(信貴山朝護孫子寺霊宝館所蔵・掲載許可済)。 五件の内容とは、1.南都京終(きょうばて)口まで攻め上がってきた筒井勢を追い払ったこと、2.大和国人箸尾氏に対する処置(調略か)、3.河内高屋城攻めにおける戦況の報告、4.和田勢との山城木津方面における戦況の報告、5.信貴山城留守衆への申し送り で、画像は5の信貴山衆への申し送りの部分である。 この書状には年次が記されていないが、『奈良県史11 大和武士』では上記2の箸尾氏関連部分の記述を例に挙げて元亀二年のものとしている。ただ三好三人衆・筒井氏らと戦っていた永禄十年にも周囲に似たような状況があるため、あるいは永禄期に書かれた可能性もあるかもしれない。 参考までに文面は 「其用番等ふしん火用心 以下無御由断被致候由 肝要猶以御堅守専一候 如件 松 六月六日 久秀(花押) 渡■(出か) 野中 備前江」 つまり、「城番などについては不審火の用心以下諸事油断されないように。さらに堅守に専念されることが肝要である」といったところであろう。 順慶、大和支配権を得る 南都ではこの後、同年三月に多聞山城に入った柴田勝家が一時政務を執ったようであるが、天正三年三月二十三日に信長は原田(塙)直政を大和守護に任じた。順慶と久秀はこの年の十一月から翌天正四年三月にかけて十市城をめぐって小競り合いを起こすが、原田直政の存在もあってさほど混乱はなかった。しかし四月に信長と和睦していた本願寺が再び挙兵、順慶は直政や明智光秀・細川藤孝らとともに摂津へ出陣する。記録には見られないが、もちろん左近清興も従軍したことであろう。しかし本願寺に加担した雑賀鉄炮衆の威力は強烈で、五月三日には原田直政が三津寺で戦死、織田勢は苦戦の末に本願寺方を石山御坊に追い込んだものの、急を聞いて出陣した信長自身も負傷する程の激戦であったという。 さて、ここで大和の歴史が動いた。戦死した原田直政に代わって、五月十日に筒井順慶が信長から大和の支配権を認められたのである。ただ、この時点では大和統治の全権を委ねられたわけではなく、後々の『多聞院日記』の記述を考えると、どうも明智光秀の指揮下にあったようである。ではなぜ信長は光秀に直接大和を統治させなかったかだが、これは順慶と寺社との関係を考慮したものであろう。大和は古くより寺社勢力が強く、興福寺が守護の代わりを務めていたことは前に述べた。そういった地方の国人達を束ね治めるには、興福寺の内情に精通した順慶以外に適任者はいないからである。 『多聞院日記』に以下のように見える。 「一 今日巳剋ニ、和州一國一圓筒井順慶可有存知之由、信長ヨリ明智十兵衛・万見仙千代兩使ニテ被申出之由、從森弥四郎折帋ニテ成身院ヘ注進在之、於事實者寺社大慶、上下安全、尤珍重〃〃」(天正四年五月十日条) 明智十兵衛とはもちろん光秀、万見仙千代とは信長の側近で後の有岡城攻めの際に戦死する重元のことである。「於事實者寺社大慶、上下安全、尤珍重〃〃」の記述に見られるように、多聞院英俊ら南都の寺社方はこの報せを大喜びで迎えたことが読みとれる。 一方、これは久秀にはショックであったに違いない。事実、翌年八月に久秀は突然信長に背いて摂津の戦線を離脱、信貴山城に籠もって十月十日にその生涯を終えることになる。「久秀最終の謀反」の根底には、大和守護の座を筒井順慶に奪われたショックが尾を引いていたに違いない。 そして、平群谷に左近が帰ってきた。 |