平群谷への復帰

筒井順慶は念願の大和掌握を果たし、左近清興は平群谷に戻ります。椿井城を修築した左近は平群谷の領主・大和島氏の惣領として復帰し、松永久秀は信貴山城に滅びます。


椿井城修築

 辰市の戦いで松永勢を破った筒井順慶は、松永方の手に渡っていた筒井城を再び回復した。次いで天正元(1572)年十二月に久秀は織田信長に降伏して多聞山城を明け渡し、その大和支配は終わりを告げた。左近は天正五年四月には春日社に灯籠を寄進していることから(「考証・左近灯籠」の稿参照)、筒井順慶が信長から大和支配を認められた天正四年五月以降には左近清興もようやく平群谷に戻り、順慶から改めて平群谷の領有を認められたものと思われる。
 大和島氏にしてみれば、激動と苦悩の長い時代であった。中世に平群谷の国人として武士化した島氏は春日社国民となり、着々と勢力を拡大して福貴寺庄などを領していたが、赤沢・木沢ら相次ぐ外敵の侵入に遭い、逃げ出しては戻る生活を余儀なくされていたからである。
 平群谷に戻った左近はやがて椿井城の修築にかかり、筒井氏麾下の在地領主として復権することになる。

椿井城縄張図  椿井城については左の図をご覧頂きたい(注1)。この城は信貴山城のある生駒山地と、竜田川を挟んだ東に位置する矢田丘陵南端近くの尾根上に南北300m強の規模で築かれたもので、図でわかるように南北2つのピークを有している。北側が一段高くなっていることからこれが主郭(本丸)と見られ、そうすると明らかに西〜南西方向の敵に備えた城であることがわかる。つまり、この城は東側の筒井氏勢力の後詰めを想定して信貴山城に備えた軍事用の城であり、左近が誕生したと推定される天文年間中期以降の筒井氏および周辺の事情を考え併せると、この城に左近がいる限りその敵とは松永久秀に他ならない。
 そして修築したとするならばこの時期以外には考えられず、左近が天正五年四月に春日社に灯籠を寄進した理由として「ようやく復権を果たしつつある島家の安泰と武運長久を願った」と先述したが、それはまさにこの時椿井城の修築完成を見たからではなかっただろうか。

 筒井順慶が大和支配の安定に力を注ぐと同時に、左近も平群谷支配を固めていったと思われる。しかし平群谷南西側の信貴山城には依然久秀がおり、大和国内にも松永方の国人は残っていた。表面上は信長の麾下に属して和睦状態であったとは言え、順慶にとって決して油断出来ない相手であることは言うまでもない。大和での戦いはほぼ無くなった代わりに、順慶は信長の命により天正五年二月には紀州雑賀攻めに、同八月には雑賀党の押さえとして和泉久米田に従軍するなど、度重なる出陣命令に休む暇のない日々を過ごしていた。むろん左近も例外ではなかろう。

 結論として、左近が椿井城の修築に手を付けたのは天正四年五月〜六月頃で、一応の完成を見たのは翌五年四月頃ではないかと推測する。


西宮城は左近の城か

信貴山城と平群谷周辺図  左近の平群谷復帰に伴い、俄然クローズアップされるのが西宮城の存在である。従来、下垣内城を併せた同城は椿井城を詰城とするセット的な存在とも見られていたようである。しかし、実際そうだったのであろうか。ここでは西宮城について少し述べておくことにする。
 左の図は信貴山城と平群谷周辺の地図で、青印は筒井方の属城、赤印は松永方の属城を示す。三里城についてはまだ詳しい調査がされていないため、この時期に城として機能していたかどうかは定かではないが、とりあえず位置的に判断して筒井方の属城とさせていただいた。
 オレンジ色の印が西宮・下垣内城である。築城者などは特定されていないが、中世に福貴寺庄を領した島氏の関連城郭と見られており、出土物から築城年代は下垣内城の方が古いことが過去の調査により判明している。また堀の形状が薬研堀から箱堀に作り直された形跡があり、永禄二(1559)年以降平群谷を押さえた久秀の手によって修築が行われた可能性が高い。

西宮城・下垣内城縄張図  右の図は西宮城・下垣内城の縄張図である(注2)。この城は平群谷を南北に流れる竜田川を天然の要害として東側に取り入れ、南方の敵に対して備えた城である。しかし、ここから椿井城へ連絡するには一旦南下して竜田川を渡る必要があるため、竜田城とその南に位置する片岡城(現北葛城郡上牧町)が久秀方に押さえられている以上、左近がここに入ったとは考えにくい。万一久秀方と戦うことにでもなれば、筒井勢の後詰めが竜田城〜竜田川西岸のラインで塞がれて期待できないからである。順慶と久秀は表面上は信長の麾下として和睦しているが、順慶にしてみれば久秀は不倶戴天の敵であり、気を許すはずはない。
 また同城は平群谷には位置するが信貴山城への大手道の玄関口に当たるため、久秀が信貴山城に退いた後も松永方の属城として押さえられていたと考える方が自然であろう。さらには両城の構造上の特徴が立野城・高安山城と類似していることから、信貴山城の出城として機能していたものと見てよいかと思われる。つまり、久秀滅亡までは左近はこの城には入っておらず、椿井城の西麓500mに位置する平等寺館に居を構えたのではないかと推測する。
 平等寺館は東西60m・南北80mの規模で西向きに傾斜した扇状地上に築造された居館で、四方を堀と土塁で囲んでいたものと思われ、ここから椿井城本丸(主郭)へは谷沿いの最短ルートが存在したことが考えられる。
 こう見てくると、椿井城が左近の城として存在する限りそれは信貴山城に対して築かれた詰城であり、その「セット関係」となる居城は西宮城ではなく平等寺館が有力ではないかという結論に至る。参考として、以下に平群谷の東西断面図を掲げておくのでご覧頂きたい。

平群谷断面図

 大和における平時の居城(館)と詰城の関係は十六世紀に入ってからのものとされる。これは中世においては近隣土豪の侵略に対する防御を施せば事足りていた居城(館)が、木沢・松永といった大規模な外部勢力の侵入には対応しきれなくなったことに起因する。信貴山に拠った木沢長政の侵入には島氏は平群谷を追われ、戻ってきたら今度は久秀の侵入を受けるといったような状況では、筒井氏自体が没落していたこともあり、島氏が椿井城を築城(修築)できるゆとりなどありえない。左近の誕生する天文期以降では、島氏は永禄二年の久秀侵入前までは平群谷にあったものの、年齢的に見て左近はまだ当主ではなかろう。つまり左近が城主として存在するのはこの平群谷復帰後であり、その城とはやはり椿井城である。
 以上より、左近が西宮城に在城したとしても天正五(1577)年十月の久秀滅亡後である可能性が高く、いずれにせよ天正八年には信長による破城令が出されていることから、両城とも「左近の城」としての生命は短かったことだけは事実である。
【注1・注2】※平群町教育委員会『平群町遺跡分布調査概報』より転載(許可済)


松永久秀の滅亡

 信長に再度降伏した久秀はしばらくは鳴りを潜め、この間の事績は不明である。また天正二年十二月に剃髪して道意を号しており、翌三年四月に十市郷の三分の一が久通に与えられている(『多聞院日記』)ので、おそらく表向きには隠居したものであろう。降伏後の久秀・久通父子は初め原田(塙)直政の麾下にあり、直政戦死後は佐久間信盛に属したようである。

平群谷から見た信貴山城  ところが信長が本願寺を攻撃中の天正五年八月十七日、久秀は突然摂津天王寺の陣を払って戦線を離脱、信貴山城へ籠もった。写真は平群谷から見た信貴山城の遠景で、最も高い山頂部分(雄岳)に本丸があった。信長は詰問の使者松井友閑を派遣するが久秀は応じなかった。この背景には本願寺やすでに東進中の毛利勢・上杉謙信との連繋、さらに信長の主力が北陸へ向かっており手薄という事実があったというが、久秀程の謀将としては簡単に誘いに乗りすぎた嫌いがあるように思える。事実謙信は途中から引き返しており、後の言動を考えると足利義昭の催促はあったにせよ、この時彼に明確な上洛の意図があったかどうかは少々疑問である。むしろ久秀の心底には宿敵筒井順慶の支配下に置かれた屈辱が常にあり、それから脱却できるならばと本願寺等の誘いに渡りに舟とばかり乗ったのかもしれない。もちろん失敗したときには確実に破滅が待っていることは百も承知の上でである。

 信長は嫡子信忠を総大将として信貴山攻めの軍勢を発した。別働隊が十月一日に久秀の重臣海老名・森の籠もる片岡城を落とし、柳本城(現天理市柳本町)では子の金吾久通が柳本衆の裏切りにより自害させられ、また同日信貴山城攻めの本隊先鋒が法隆寺に着陣した。三日には信忠も到着、五日には人質として預けられていた久通の子(十二・三歳)を京で市中引き回しの後六条河原で処刑し、同日四万の兵が信貴山城へ一斉に攻め寄せた。
 多少の抵抗はしたものの、力尽きた久秀は十月十日に城に火を放って自刃、ここにその生涯を閉じた。享年六十八歳という。大仏殿が焼けた永禄十年十月十日からちょうど十年後の十月十日、久秀は灰になった。大仏殿の焼けた翌日は雨が降っていたが、信貴山落城の翌日もまた冷たい雨が降っていたという。なお、久秀の墓について こちら にまとめておいたので、ご参考までに。


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