さて、今度は当時の郡上八幡城主・稲葉貞通の動きを追ってみます。彼の留守中に旧領主遠藤慶隆が、金森勢とともに八幡城へ侵攻してきました。急を聞いた彼は即座に軍を返し、八幡城救援に向かいます。 |
![]() 稲葉一族は伊予守通富(通貞)に始まる。彼は伊予国守護河野刑部大輔通教(通直)の六男で、故あって伊予を追われたが、美濃国守護土岐左京大夫成頼に遇された事が縁で、彼の妹を娶って稲葉姓に改姓し美濃に住み着いたと伝えられる。 ![]() ![]() さて、遠藤慶隆の娘婿金森可重は法印長近の養子となっており、この時家康の会津征伐に従軍していた。江戸で家康から慶隆の郡上八幡攻略への加勢を命じられた可重は、急ぎ飛騨高山へと戻り、途中で慶隆に使を送って侵攻経路を指示した。すなわち可重は坂本口より、金森家臣池田図書は白川口より攻め込むので、慶隆は益田口から攻め込んで合流しようというものである。 ![]() ![]() 一方、犬山城にいた貞通はと言えば、実はこの時点で知己の福島正則の勧めにより東軍に転じることを決めていたのである。これを受けて福島正則は井伊直政と相談し、直政は慶隆宛に八幡城攻撃を中止するよう書状を発したが、慶隆は「もはや手はずも整っている上、貞通父子は今なお犬山城にいて向背の程が知れない」と拒否した。これが八月三十日のことである。子の通孝からの急使により慶隆らの侵攻を知らされた貞通は、驚きまた怒って急ぎ八幡城へと戻っていった。 写真は八幡城の天守閣で、前述「上ヶ根の戦い」にも八幡城の遠景のカットを入れたが、実に美しい城である。 さて、再び八幡城。可重隊は激しい銃撃戦の末に二ノ丸を占拠、慶隆は一ノ門を突破して金森勢と合流、本丸を攻撃して城方の老臣林惣右衛門父子を生け捕った。両軍は激闘を交えたが日が暮れたため寄せ手は一旦引き揚げ、降伏を勧告した。翌二日、城内から笠を竿先に掲げた僧(安養寺の末寺福寿坊の僧という)が慶隆の陣にやってきて、貞通がすでに東軍に属したことを告げて和平を申し込んだ。慶隆はこれを受け入れ、人質を取った上で和議を結び、ひとまずこの日は赤谷山の愛宕に陣を移した。しかし、戦いはこれで終わってはいなかった。翌三日の未明、皆がまだ寝静まっている時刻に、貞通勢が目と鼻の先の所まで来ていたのである。 こちらは怒りに燃えて八幡城へと急行していた貞通だが、彼は強行軍を重ねて九月三日未明に八幡城下に到着した。彼の近臣は攻撃をしないよう諫言したが、貞通はこれをはねつけてこう言ったそうである。 「たとえ款を送ったとしても、目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す。敵を討ち破って城を取り戻し、その上で和議を結んでも遅くはない」 さすがは一鉄良通の子、いやはや何ともすさまじい言葉である。そしてその通りに事を運んでしまうのには恐れ入る。貞通は慶隆の本陣愛宕を急襲した。 そんなことは夢にも知らない慶隆はこの急襲に慌て驚き、本陣は大混乱となった。慶隆はかろうじて家中の勇士の活躍で逃れ、ほうほうの体で可重の陣へたどりついた。一方の貞通は深追いはせず、意気揚々と八幡城に入城した。そして翌九月四日、改めて和議の使が貞通から慶隆のもとへ遣わされ、ここに正式に和議が成立して両軍は兵を収めた。慶隆はただちに兵を東濃上ヶ根へ向け、前述の「上ヶ根の戦い」の後半へとドラマは続く。 貞通は家康に初め西軍に加担して東軍の兵を殺傷したことを詫び、薙髪して謹慎した。竹を割ったような性格できっちり自己の意地を通した彼は、家康から罰せられることもなく、程なく豊後臼杵五万石の主となる。 なんと、一万石の加増であった。 |