大津城の戦い
〜京極高次の関ヶ原〜

敦賀から大谷吉継とともに一日遅れで関ヶ原へと向かった京極高次は、途中で急に道を変えて居城の大津城へと戻ります。そしてそのまま籠城、結果的に開城したものの、立花宗茂ら西軍勢を食い止めて関ヶ原に参戦できなくしてしまいます。


蛍大名・京極高次

 京極家は近江の名族・佐々木六角氏の支流で、彼は高吉の子として永禄六(1563)年に生まれた。当時は北近江の浅井氏が勢力を伸ばしており、彼は父とともに坂田郡清滝村に没落していた。そうしているうちに同十一(1568)年八月七日、当時勢力を伸ばしつつあった尾張の織田信長が、近江佐和山城の六角義賢に対して京都所司代職と引き替えに足利義昭上洛の協力を要請するが、義賢はこれをはねつけるという事件が起こる。このため信長は九月七日、足利義昭を奉じて尾張・美濃・伊勢・三河の軍を率いて岐阜を発したのだが、この際高吉はいち早く信長に臣従を誓って当時六歳の高次を人質に出したのである。
 これ以後の細かい事績は略すが、高次は天正十(1582)年の本能寺の変当時は近江で五千石を与えられていた。その時彼は時節到来として御家再興にこだわりすぎたのか、明智光秀の加担要請を拒みきれなかったのかは判らないが、明智方について秀吉の長浜城を攻めているのである。本来ならこれで高次は攻め滅ぼされるか自刃を要求されるのが当然で、軽くて領土没収であろう。しかし、彼は後に大津城六万石の主となり大津宰相と呼ばれるまでになるのである。これは何故か。そこには好色家で有名な秀吉の影が見え隠れしていた。

大津城跡  本能寺の変当時、彼には器量の良い龍子という妹(姉とも)がいた。秀吉に追われる身となった高次は、越前の柴田勝家、続いて妹の嫁ぎ先である若狭の武田元明のもとへと身を寄せる。しかし勝家・元明も秀吉に滅ぼされてしまい、高次は絶体絶命の危地に立たされることになってしまった。ところが、龍子を秀吉の側室として差し出したところ(秀吉に召し出されたとも)、彼女は松の丸殿と呼ばれて非常に秀吉から寵愛されるようになったのである。このため彼は秀吉から「反逆」の罪を許され、文禄四(1595)年に近江の要衝大津城の主として抜擢されるのだが、これは如何に彼女からの助命嘆願があったにせよ、異例のことであった。しかし、この裏には秀吉の生い立ちが大きく関わっていたと思われる。写真は現在の大津城跡で、ご覧のように当時の面影はもはやなく、高層マンションが建つ近代的な光景に変貌している。

 ご承知のように秀吉は卑賤の出自である。彼の名族に対する羨望たるや、通常の戦国大名とは比較にならないくらい大きかったのではないだろうか。当時の秀吉にとっては、血縁者に有力大名や名族大名が一人でも多く欲しかったはずで、その点京極家はまさに打ってつけの名流であった。秀吉にとって高次を攻め滅ぼすことなどたやすいが、それよりも助命して恩を売りつけることによって、より強く自陣に引きつけようとしたものと思われる。
 とは言え、さすがに高次はいきなり大津城主となったわけではなく、赦免された当初 (天正十二年) は近江高島郡田中で二千五百石であった。しかし同十四(1586)年には高島郡で五千石、九州攻めの後には大溝城一万石、小田原攻めの後には八幡山城二万八千石と、まさにトントン拍子で出世することになるが、これには松の丸殿の存在が大きかったであろう事は想像に難くない。そして文禄四年に高次は大津城主となり、慶長元(1596)年には従三位参議に任官し、以後「大津宰相」と呼ばれるまでになるが、周囲からは彼の功績などではなく妹の「尻の光」で出世したという意味から、蔭で「蛍大名」と囁かれた。もちろん好意的な意味ではなく、多分に嘲笑を含めたものであることは言うまでもない。

 しかし、話はこれで終わらない。というのは彼の妻・お初が浅井(あざい)長政の次女だったからである。長政には三人の娘があり、長女の茶々(後の淀君)は秀吉の側室、三女の於江与は徳川秀忠の妻となったのだが、これにより高次は関ヶ原の風雲が高まるや東西の狭間で苦悩することになる。義兄は秀吉、義弟は秀忠。これは確かに難しい。
 慶長五(1600)年、当初西軍に属した高次は敦賀の大谷吉継から求められ北陸方面へと出陣する。そして敦賀から関ヶ原へ向かう途中、吉継に一日遅れで行軍していた彼は突如道を変え、居城大津城に引き返して籠城するのである。


大津城の戦い

大津城跡に建つ碑  むろん大谷吉継もこのあたりの事情は熟知しており、美濃への移動にあたって密かに朽木元綱を呼び、高次の挙動を監視させていた。さて高次が越前東野に着陣したとき、大津城の留守を預かる赤尾伊豆・黒田伊予らから急使が到着、西軍方から城の明け渡しを求められていることを告げた。ここに高次は西軍と訣別、元綱の目をかわして近江塩津から垂見峠を越えて海津浦へと抜け、船を調達して大津城へと向かったのである。写真は大津城跡に残る碑で、浜大津にある公園の西隅にひっそりと建っている。
 九月三日のうちに城へ戻った高次は、ただちに密書を井伊直政に届け、西軍を大津で引き受けることを伝えて急ぎ防戦体制を整えた。この際、黒田伊予が味方ながら東軍へ通じているのではないかと疑い、赤尾伊豆・山田大炊らが協議した上で黒田を捕らえ、人質とともに郭に押し込めるという一幕もあったという。

 四日早朝、高次は斎藤庄左衛門・若宮兵助に命じて兵糧や竹木を集めさせ、藍原助右衛門に命じては関寺の門を固めて往来の通行をふさがせ、あわただしく籠城準備が行われていた。これを聞きつけた淀殿は驚いて孝蔵主と阿茶局を大津の高次夫人のもとに派遣、高次の東軍加担を思いとどまらせようとする。もちろん驚いたのは三成等も同じで、大坂から大垣へ向けて進発していた毛利元康を大将とする立花宗茂・筑紫広門らの一万五千の兵を、急遽大津攻めに当たらせた。
 淀殿からの使者は大津城の夫人に会って高次の翻意を促すが、彼女はどうしようもないと答えたため高次に面会を求める。しかし彼はこれを追い払って大坂へ返してしまった。毛利輝元や増田長盛からも説得の使者が派遣されるが、高次の意志は固く、ついに物別れとなる。これは家康が東下の際、大津城に立ち寄って高次の饗応を受け、その時彼の手を握って頭を下げて加担要請をしたときからこのストーリーは出来上がっていたとする話が伝わっている。

 こうして九月八日、西軍一万五千(『大津籠城合戦記』によると三万七千とある)の兵による大津城攻撃が始まった。しかし高次は固守、容易に城攻めは捗らない。中でも赤尾伊豆・山田大炊の活躍はめざましく、精兵五百を率いて城外の大軍へ討って出、存分に暴れ回ったという。『大津籠城合戦記』に次のようにある。
 「山田赤尾ハ素ヨリ智勇備リ武辺場数ノ勇士ナレバ、寄手ヲ手軽ク追捨テ、勝鬨作リテ城中ヘ引返ス」

 攻めあぐんだ寄せ手は、十三日には大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守の柱に命中、城内は大混乱となる。高次も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。彼自身も二箇所に槍傷を受けた上に郎党も討ち減らされたが、ついに吉右衛門は一番乗りを果たし城内になだれ込む。そしてこの日中に二ノ丸が落ち、翌十四日も猛攻が続けられたため高次は遂に意を決して同日夜に開城、十五日朝には園城寺に入って剃髪、山城宇治を経て高野山へと向かった。
 高次が園城寺で剃髪した十五日、西軍は関ヶ原で壊滅的な敗戦を迎える。高次は降伏開城したものの、結局西軍勢を大津で釘付けにして関ヶ原へ向かわせなかったのである。家康はこれを高く評価した。

 家康に対し、高次は開城したことを恥じて仕官を断るが、弟高知に説得され若狭小浜八万五千石に加封され、翌年更に七千石を加増されたという。


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